01 塩川寶祥伝 少年時代

01 塩川寶祥伝

少年時代

命のやりとりを実際にした唯一の武道家 その少年時代

1 少年 塩川照成

 塩川寶祥照成(しおかわほうしょうてるしげ)の父は塩川家の三男、亀三郎である。

 福岡県鞍手郡若宮町に住む塩川家は、筑豊炭田の一つ、貝島炭坑に米を送り込む仕事を一手に引き受けていた。その財力で、直方からの鉄道宮田線を自力で引いた逸話からすると、この地方の有力者であったことは間違いない。

 第1次世界大戦が終結し、好景気に浮かれていた日本列島に、大正11年経済恐慌の激流が押し寄せる。
 度重なる米騒動に嫌気がさした塩川亀三郎は福岡県鞍手郡若宮町をあとにして、下関の三菱造船所に職を得て、移り住むこととなった。

 塩川寶祥照成は、この亀三郎を父、千恵を母として大正14年、12月10日、下関で出生した。以下、師範となる前の先代塩川宗家を敬称略で記載することを許してほしい。その方が、おそらくあなたも没頭できるのではないかと思う。

 さて、照成。その名は昭和天皇の姉、照宮成子(てるのみやしげこ)様からいただいた。 ところが照成は、とんでもない「やんちゃ」だった。
 尋常小学校5年、11歳の照成少年は「弱いもの虐めは許さない」「女性には優しく」と決めていた。
 だから、下級生をいじめた上級生に立ち向かったのは当然であったが、相手が悪かった。その上級生の兄貴はヤクザの末端構成員であり、その仲間とともに照成少年を袋叩きにしたのである。

 しかし、そこで終わらない。
 照成少年は遊郭へあがったその兄貴を見つける。家から急ぎ秘蔵の太刀を持ってきて、物陰に隠れ待つ。やがて出てきたチンピラたちに、十一歳の照成少年は斬りかかったのだ。
 自宅に戻った少年は、井戸に刀を投げ込んだそうだ。

 しかし、警察は見逃さなかった。
 当然親族は大騒ぎである。
 『おい、照ちゃんが大変なことをしでかしたぞ!』
 地方紙の新聞の見出しも踊った。
 『辻斬り豆剣士、ヤクザ三人に斬りつけ、重傷を負わす』

 11歳にして保護観察。事件の内容から考えれば、それでもそれだけですむことになったのは、そのまっすぐな性根を愛していた小学校の先生のおかげであった。

2 青年 塩川照成 予科練へ

 やがて高等小学校、青年学校を経た照成少年は、昭和十六年、大阪の桜島造船に奉公に出された。ここで彼は、摩文仁憲和(まぶにけんわ)先生の門に入ることになる。
 摩文仁憲和は空手の四大流派と呼ばれる「糸東(しとう)流空手」の創始者である。

 転機はそこから半年後だ。盆の帰省時に突然警察に逮捕されてしまったのだ。北九州の戸畑で起こったある刃傷事件の犯人と疑われたのだ。
 「むじつ」であることはすぐにわかったが、なぜ疑われたか。それは自分が札付きと思われていることに問題があるからだ、と思った。

 この印象を変えるためにはどうしたらいいか。その答が「海軍の予科練」への入学であった。

 「海軍飛行予科練習生」通称 予科練は当時の社会的憧れ、エリートである。

 周囲は照成が今から予科練に行けるなど信じていなかった。しかし、昭和17年5月、照成少年は海軍の予科練に合格したのだ。さらに予科練を終え、海軍高等飛行学校にも進み卒業した。

 昭和19年、塩川は、鹿児島県肝属郡串良航空基地(鹿屋基地)で紫電改に搭乗する帝国海軍飛行兵であった。予科練、そして航空飛行学校を出た照成青年は、航空戦闘技術において抜群の腕前であったようだ。