辻無外伝
無外流誕生



1.辻兵内 その青春
無外流の流祖辻月丹は、将軍徳川家光の時代、慶安元年に生まれた。
産声をあげたのは、近江の国は甲賀郡宮村字馬杉だ。
13歳であった寛文元年に京都に出た。かつて伊藤大膳と名乗っていた、山口流剣術の師 山口卜真斎に師事し、剣術を学んだ。
18歳の頃技も進み、心も練る必要がある、と近江、伊勢、伊賀の国境の油日嶽に登って精神を鍛えようとした。
その年、京都をたって、越後から信州をめぐり、技を磨くことに専念した。
23歳。京都の愛宕山に登った。
7日の間絶食し、剣術成就の祈願をかけている。その間山中にて剣の修行を続けている。
2.山口卜真斎から免許受領
延宝2年、26歳のとき、卜真斎から免許を受けたが、まだ満足できない。さらに技を磨こうと願い、師のもとを辞して江戸へ下った。
江戸では名人、達人と試合をし、自分の技量がどの程度なのかを知ろうとした。しかし、無名の剣士と試合をする人もいようはずがない。
そこで麹町9丁目に「山口流」の名で道場を開く。集まってきたのはわずかな子どもたち。「糊口をしのぐ」とはこのことだ。
3.石潭良全和尚
この間、ひたすら考え、剣も磨いた。
麻布吸江寺のの石潭良全禅師について禅を学んでいる。
天和2年34歳。師の山口卜真斎が江戸に出てきた。手元を離れて8年たった弟子の技量を見ようと思ったのである.。
無外は小太刀を手にした。師に対し、手もとに入った瞬間、卜真斎はその場に倒れてしまった。無外は師に体当たりをしたのである。
「今のはあまりに強かった。もっと柔らかくしてみよ」
再度立ち会う。
同じように卜真斎を制してしまった。
「わかった。居合はどうだ?見せてみよ」
卜真斎の言葉に無外は壺型の燭台である職壺を置き、火をともした。
無外は抜刀した。
その一閃で火が消えたではないか。
卜真斎は驚いたのだろう、「今一度」。
しかし、3度やって、3度とも火は消えてしまった。
「もはや私の及ぶところではない。世の模範となるであろう」と言って数日後、京都へ帰っていった。
それにしても「無外」という号はいつ頃つけられたのだろう。
普通に考えれば、免許の巻物をいただいたころだろうが、「無外」すなわち「天下無敵」「天下無双」のような語意の「無外」ならば、他の者と比べて「俺は強い」という実感が必要だろう。
いずれにしても、自分の強さの自覚があったに違いない。
4.偈を与えられる
元禄6年。
この年は無外にとって劇的な年だった。
石潭和尚について19年。すでに45歳である。
心は融通無碍、自由自在にものごとをとらえることができる。
忽然として悟りを開いた。
石潭はすでに亡くなっている。
そのあとを引き継ぎ、無外を指導していた神州和尚はは「そうか、悟ったな」と、石潭和尚の名で偈を与えた。
一法実無外(一法実にほか無し)
乾坤得一貞(乾坤一貞を得)
吹毛方納密(吹毛まさに密に納)
動着則光清(動着すればすなわち光清し)
今まで名を兵内または無外と称してきた。
その「無外」を織り込んだこの偈はどうしたことだろう。
「俺は強い」という意味だった「無外」を「真理はたった一つであり、他にはないんだよ。その真理を追いかけなさい」とでも言うような意味の五文字に変えてしまった。
いつそれを考えても、この偈には感嘆する。
剣に生きるサムライであれば、「真理の一刀を追いかけなさい」とでも言えばいいのだろうか。
「天下無双」という生臭い「無外」を、哲学、流派の宇宙をあらわす意味の「無外」に昇華させてしまったのだ。
この後、辻無外は、号を月丹資茂(すけもち)とし、さらに流名を「無外流」と改めた。
無外流は禅と背中合わせになったのだ。
また、和尚からは一法居士の号を受けることとなった。
5.貧しい日々
江戸に来て19年である。欲も執着も無ければ仕官をしたいわけでもない。
だから常に貧しかった。
天和2年のこと。山口卜真斎が月丹を訪れた後、江戸を台風が襲った。月丹の家は大破、知人の鈴木伝右衛門の厚意で彼の家に同居していた。
貧しさも極まり、米に事欠くこともあった。そんなときは早朝から家を出、帰宅してから下男に向かい、こう言うのだ。
「よそで食事を済ませてきた。その方だけで朝食をとりなさい」
そして弟子の家へ稽古に行く。稽古先では食事が出るから、そこで食事をとる。そうやって一日一食で済ませることもあった。
食事でさえそんな風だ。当然衣服も破れたままなら、刀の鞘も変色したままだ。しかし彼はこう言ったと言う。
「武士は元来貧困なものだ。まして浪人はなおさらだ。未練があっては、剣術修行は成就できない」
そのとき作った歌が残っている。
憂きとてもなどか姿を厭うべき
峯より落つる瀧のまにまに
孤高の人の孤独が匂うかのようだ。