01 無外流誕生

辻無外伝

無外流誕生

滋賀県甲賀郡馬杉。油日神社に生誕の地の碑があるが、駅を降りてもコンビニもない、本当に人里離れたところ、という印象。ずいぶん歩くことになるが、唯一ある飲食店のラーメン屋さんはおいしかったのでお勧め。
碑の後ろに回ると、14代宗家の石井悟月先生が寄贈されたことがわかる。第12代とあるのは、中川士竜先生を11代とした場合。塩川先生は、中川士竜先生の前に2人数え忘れがある、として石井先生を14代としたことは「塩川寶祥伝」を参照していただきたい。
神社にあるご神木の杉。聖徳太子がこの地を平定した際、馬をこの杉に結びつけたことから「馬杉」の名となったとか。ほかにも甲賀の里に生まれたことから、辻月丹は忍者であったのではないか、など種々様々な憶測を呼んでいるが、歴史研究家ではないので、そちらは誰かにまかせておきたい。

1.辻兵内 その青春

 無外流の流祖辻月丹は、将軍徳川家光の時代、慶安元年に生まれた。
 産声をあげたのは、近江の国は甲賀郡宮村字馬杉だ。

 13歳であった寛文元年に京都に出た。かつて伊藤大膳と名乗っていた、山口流剣術の師 山口卜真斎に師事し、剣術を学んだ。

 18歳の頃技も進み、心も練る必要がある、と近江、伊勢、伊賀の国境の油日嶽に登って精神を鍛えようとした。
 その年、京都をたって、越後から信州をめぐり、技を磨くことに専念した。

 23歳。京都の愛宕山に登った。
 7日の間絶食し、剣術成就の祈願をかけている。その間山中にて剣の修行を続けている。

2.山口卜真斎から免許受領

 延宝2年、26歳のとき、卜真斎から免許を受けたが、まだ満足できない。さらに技を磨こうと願い、師のもとを辞して江戸へ下った。

 江戸では名人、達人と試合をし、自分の技量がどの程度なのかを知ろうとした。しかし、無名の剣士と試合をする人もいようはずがない。

 そこで麹町9丁目に「山口流」の名で道場を開く。集まってきたのはわずかな子どもたち。「糊口をしのぐ」とはこのことだ。

3.石潭良全和尚

 この間、ひたすら考え、剣も磨いた。
 麻布吸江寺のの石潭良全禅師について禅を学んでいる。

 天和2年34歳。師の山口卜真斎が江戸に出てきた。手元を離れて8年たった弟子の技量を見ようと思ったのである.。

 無外は小太刀を手にした。師に対し、手もとに入った瞬間、卜真斎はその場に倒れてしまった。無外は師に体当たりをしたのである。

 「今のはあまりに強かった。もっと柔らかくしてみよ」

 再度立ち会う。
 同じように卜真斎を制してしまった。

 「わかった。居合はどうだ?見せてみよ」
 卜真斎の言葉に無外は壺型の燭台である職壺を置き、火をともした。
 無外は抜刀した。

 その一閃で火が消えたではないか。

 卜真斎は驚いたのだろう、「今一度」。
 しかし、3度やって、3度とも火は消えてしまった。
 「もはや私の及ぶところではない。世の模範となるであろう」と言って数日後、京都へ帰っていった。

 それにしても「無外」という号はいつ頃つけられたのだろう。
 普通に考えれば、免許の巻物をいただいたころだろうが、「無外」すなわち「天下無敵」「天下無双」のような語意の「無外」ならば、他の者と比べて「俺は強い」という実感が必要だろう。
 いずれにしても、自分の強さの自覚があったに違いない。

4.偈を与えられる

 元禄6年。

 この年は無外にとって劇的な年だった。
 石潭和尚について19年。すでに45歳である。

 心は融通無碍、自由自在にものごとをとらえることができる。

 忽然として悟りを開いた。

 石潭はすでに亡くなっている。
 そのあとを引き継ぎ、無外を指導していた神州和尚はは「そうか、悟ったな」と、石潭和尚の名で偈を与えた。 

   一法実無外(一法実にほか無し)
   乾坤得一貞(乾坤一貞を得)
   吹毛方納密(吹毛まさに密に納)
   動着則光清(動着すればすなわち光清し)

 今まで名を兵内または無外と称してきた。
 その「無外」を織り込んだこの偈はどうしたことだろう。

 「俺は強い」という意味だった「無外」を「真理はたった一つであり、他にはないんだよ。その真理を追いかけなさい」とでも言うような意味の五文字に変えてしまった。
 いつそれを考えても、この偈には感嘆する。
 剣に生きるサムライであれば、「真理の一刀を追いかけなさい」とでも言えばいいのだろうか。
 「天下無双」という生臭い「無外」を、哲学、流派の宇宙をあらわす意味の「無外」に昇華させてしまったのだ。

 この後、辻無外は、号を月丹資茂(すけもち)とし、さらに流名を「無外流」と改めた。

 無外流は禅と背中合わせになったのだ。

 また、和尚からは一法居士の号を受けることとなった。

5.貧しい日々

 江戸に来て19年である。欲も執着も無ければ仕官をしたいわけでもない。
 だから常に貧しかった。

 天和2年のこと。山口卜真斎が月丹を訪れた後、江戸を台風が襲った。月丹の家は大破、知人の鈴木伝右衛門の厚意で彼の家に同居していた。

 貧しさも極まり、米に事欠くこともあった。そんなときは早朝から家を出、帰宅してから下男に向かい、こう言うのだ。

「よそで食事を済ませてきた。その方だけで朝食をとりなさい」

そして弟子の家へ稽古に行く。稽古先では食事が出るから、そこで食事をとる。そうやって一日一食で済ませることもあった。

 食事でさえそんな風だ。当然衣服も破れたままなら、刀の鞘も変色したままだ。しかし彼はこう言ったと言う。

 「武士は元来貧困なものだ。まして浪人はなおさらだ。未練があっては、剣術修行は成就できない」

 そのとき作った歌が残っている。

  憂きとてもなどか姿を厭うべき
      峯より落つる瀧のまにまに

 孤高の人の孤独が匂うかのようだ。