02 敵機を18機撃墜したエースパイロット

02 塩川寶祥伝

敵機を18機撃墜したエースパイロット

3 エースパイロット

 ウィキペディアによれば、敵機を10機以上撃墜した戦闘機乗りは「エースパイロット」と呼ばれる。世界中の戦闘機乗りが認定を受けているが、塩川もこの「エースパイロット」の称号を受けている。その記録によれば塩川は敵機(米軍機)を、なんと18機撃墜したと記録されている。さらに、撃墜されること2度。(3度という説もある)

 撃墜され、そして生還したのだ。

 現代において武道家は多数いる。彼らは一様に「命のやりとり」を口にするだろうが、実際に命の奪い合いをしたものはいない。唯一塩川だけだ。それも、レーダーもない戦闘機を駆り、前後左右上下に敵がいるかもしれない、という状況の中でのことだ。

 再度確認したい。現代において、そんな経験をした武道家は塩川以外にはない。

 激しかったのは、2度目に撃墜されたときだと言う。
 塩川は、敵機来襲に緊急出撃した。
 敵の戦隊とドッグファイトの結果、グラマンを撃墜。

 ところがその直後、P38に後ろを取られ、銃撃を受けた。
 「この状態で上昇すると速度が落ち、海面に真っ逆さまだ。木っ端みじんになるに違いない!
 それを防ぐには、海面すれすれまで一気におりて、海すれすれに飛ぶしかない!」

 こんな判断を瞬時にやってのけたのはさすがだと言えよう。
 油が噴き出し、ぎりぎりで海面に不時着。機銃掃射がそこを襲ったとき、味方が援護。P38は飛び去っていった。

 生き残った。
 しかし、ときに昭和19年12月29日。年の瀬の寒い海に放り出されてしまったのだ。
 翌日の早朝、カツオ船に救助されたときは、意識を失っていたと言う。

 意識不明だが海軍の軍人だ。当時はそんな軍人をおろそかにしない。
 塩川を預かったのは、網元の有力者である。海軍基地は医療体制が整わないということで、正月をその村で送ったため、網元のお嬢さんと恋が生まれ、それを網元も温かく見守り、やがて帰隊する。

 終戦まであと少しと迫った、昭和20年(1945年)8月8日の日だった。
 網元のお嬢さんから、大村基地に慰問に訪れるという連絡があった。当時、飛行機乗りは民間の家に下宿していた。
 お嬢さんはその下宿を訪れた。

 その早朝。出撃命令に従い、彼女を下宿に残し出撃。戦闘が終わって戻った塩川は、呆然とした。下宿は直撃弾を受けて壊滅していたのだ。お嬢さんも下宿のおばさんも死亡していた。

 呆然としていた塩川を、さらに地響きと大きな揺れが襲う。音の方向をみると、大村の対岸、長崎から巨大な入道雲のようなものが昇った。

 昭和20年8月9日、午前11時2分。

 長崎に原爆が投下されたのだった。

4 終戦 博徒、進駐軍との修羅場

 終戦。

 塩川は、北九州の若松に身を寄せた。父 亀三郎が、洞海湾造船の所長として、この地にいたからである。
 北九州工業地帯の若松市(当時)は焼け野原となっていた。約1年間、この地に滞在することになる。

 ともあれ、糧を得なければならない。
 始めたのはなんと賭場荒らしであった。博徒の賭場を襲い金を奪い始めたのである。
 相当な修羅場であったのだろう。そのとき受けた刺し傷を後年、弟子に見せることもあったそうだ。

 米兵とも闘った。進駐軍に逮捕もされた。

 道場破りの日々も送った。

 ダンスホールが闘争の場になることが多かったと言う。不良米兵が、女性の手を引っ張りどこかへ連れて行こうとする場に出くわすと容赦しなかった。

 「警察は、短い警棒ぐらいしか持っていない。しかも相手は戦勝国の進駐軍だぞ、
 『やめなさい!』と、遠巻きに言うぐらいしかやりようがないんだ」

 そんな警官では米兵の乱暴を止められない。塩川が飛び出し、米兵と戦う。米兵の仲間が駆けつけると、警察官はあらぬ方角を指さし、「あっちへ、逃げた!」と言って匿ってくれたという。

 これらの、修羅場における実戦の数々がのちの武道へ投影されたのは言うまでもないことだ。

 あまりに、事件が多発したので、進駐軍の必死の捜索が始まった。
 「塩川を掴まえろ!」
 警察署長から内密に呼び出された。
 「塩川君、まずいぞ。進駐軍は本気だ。あと、6ヶ月もすると司令官は交代する、しばらく身を隠した方がいい」

 進駐軍相手では、警察も守りたくても守れない。署長の忠告にしたがい、長崎へ身を隠したこともあったと言う。

5 刑務所へ 佐郷谷留雄

 昭和22年の暮れ。ついに進駐軍に捕まってしまった。罪状は、進駐軍政令違反であった。刑期は3年。

 「俺は、刑務所には入ったが、日本の法律に裁かれたわけではない。よって前科はない」

 1年で保釈となったが、その間に問題を起こし、刑務所を転々とした。
 「福岡、耶馬渓、下関、山口、広島と各地の刑務所を回った。一年でこんなに移った人間はおらんだろう」

 「腕力自慢のヤクザが、俺に叩かれて面目を潰し、刑務所を脱走して大騒ぎになったが、俺のせいじゃないぞ」

 「男子の本懐」という、浜口雄幸首相を描いた、城山三郎の小説がある。

 襲撃されて命を落とした首相が最後に言った「男子の本懐である」という言葉を題名にしたものだ。その襲撃犯が佐郷屋留雄(さごうやとめお)。終戦の時は朝鮮半島において自警団を組織し、団長となり引き揚げ者の女子供の保護に努めた、右翼の大物である。

 塩川は、刑務所の中でこの佐郷屋と出会い、かわいがってもらっている。
「俺の若い頃によく似ている」と言われたと言う。
 並大抵の胆力ではなかったのだろう。