02 貧しい日々

辻無外伝

貧しい日々

6.心は貧しくならない

 加賀藩の屋敷の向井宇之助、同じく辨之助へ教えに行っていた。稽古が終わって、月丹が煙草を吹かしていた。

 すると、「私にも稽古を」と声をかけられた。見るとその家の下男である。『下男の分際で、主人の師匠に稽古を所望するのは、見苦しい男であるからであろう』と考え、
 「今日は疲れた。明日にでも」と断った。

 しかし、どうも胸にしこりが残る。

 本当はくたびれもしていない。それなのに「くたびれた」など、相手が下男だからと言って断ってしまった。誰が言わなくても自分でわかる。自分の心根が情けなかった。相手からなめられていると思ったのだろう。

 きっとこれは俺が貧しいために、自分の心がひがんでいるからに違いない。

 「すまん。俺は考え違いをしていた。稽古しよう。」

 主人と同じように稽古をつけてやった。そのときに詠んだ歌がある。

 小車の夢ばかりなる世の中を

    何とて厭う身こそつらけれ

7.追い詰められて

 越後少将の家士に家里守全という人がいた。修行の志が高く、朝に夕に月丹の稽古を見ていた。しかし月丹があまりに生活に窮していたのを見て心配した。
 「これでは思うように稽古はできないだろう」

 そこで笹山某、高林覚心、向井宇之助、鈴木伝右衛門と相談した。
 「生活費をさしあげようじゃないか」
 月丹を訪ね、そう伝えると

 「私はもともと浪人であり、修行者である。貧乏なのは当然だ。
 それを私に相談もなく、そんなことをふれまわるとはどういうことか。
 月々の贈り物をして面倒を見てくれるのはありがたいことではある。師弟の義、あたたかい。ねぎらいは師として本当にうれしく思う。
 しかし、ものの道理を考えてみてくれ。この月丹が、小身の人々に生活を支えられて修行が成就するだろうか。
 そんな状態では、天は私を見捨ててしまうだろう。仮に貧乏のために死んでしまっても、兵道の道にかなわずに死んでしまったのだとして本望である。
 まったく貧乏は苦にならない。それは天命である。
 だから、こんなことはもう口にするな」

と言って席を立ってしまった。

8.抜き打ちの一腰を

 武州梅村の杉田庄左衛門は月丹の弟子として長く稽古した。居合を習いたいと思っていた。ある日師に頼み、教えてもらった後のこと。月丹はこう言った。

 「居合とは、鞘の中で勝負をすることだ。
 いったん鞘を離れてしまえば剣術だ。
 だから二間(約3.6メートル)、三間(約5.4メートル)あまりの間で敵に言葉をかけ、敵が刀を抜く前に撃つことが居合の本道だ。
 おまえはこの抜き打ちの一腰を朝に夕に怠らずに稽古しなさい」

 杉田庄左衛門は本当はかたき討ちをするために、月丹について剣を学んだのだ。月丹はこのことに気づいていた。
 かたき討ちを成就させるために、何に集中したらいいかを言ったのだろう。

 その後、杉田は麹町一丁目の半蔵門堀端でかたき討ちを成就させ本望を果たしている。

9.花開く

酒井 忠挙(さかい ただたか)
江戸時代前期の譜代大名。上野厩橋藩(前橋藩)の第5代藩主。徳川家における三河家臣団の名門、徳川四天王の家、酒井家本家の雅楽頭系酒井家10代。藩政は文武両道を心がけ、辻月丹資茂に無外流を学び、儒学者佐藤直方を招聘した。

 月丹の人格も技術もようやく知られるようになった。老中酒井雅楽頭(うたのかみ)忠挙(ただたか)が入門し、庇護したのだ。
 「今学ぶなら無外流がいい。その代わり稽古は厳しいぞ」と大名に宣伝をしてくれたと言う。

 今では殺到するように入門者がやってくる。大名、直臣、家臣の家臣である陪臣、あわせて門人は3,000人となった。その中でも1万石以上の大名は以下の通りである。

  鍋島摂津守      永井日向守
  伊達宮内少輔        伊達遠江守
  阿部対馬守      松平大蔵少輔
  小笠原佐渡守        小笠原山城守
  松平土佐守      松平右近将監
  永井備後守      伊達若狭守
  伊達兵五郎      阿部〇熊
  松平主税頭      松平内膳正
  酒井勘解由      京極若狭守
  京極壱岐守      永井飛騨守
  松平内蔵守      一柳因幡守
  一柳内蔵助      酒井雅楽頭
  松平美濃守      大関信濃守
  大関帯刀         山野辺主水
  伊達左京亮      加藤左膳
  平松出羽守      松平靭負

  ※ 〇は読み取り不明

 元禄8年2月の江戸の大火で月丹の居宅も燃えてしまった。
 それまでの入門の誓詞も消失してしまい、上記の者以外は不明になってしまった。
 しかし、元禄9年以降、宝永6年までの14年間の誓詞によれば、
 上記の万石以上の大名32人に加え、直参が156人、陪臣が930人である。

 酒井雅楽頭の庇護のもと、「大名が学ぶ剣」として堂々たる地位となったのだ。