辻無外伝
将軍お目見えへ 大流派となる
10.ときの権力者の庇護
これら諸侯の中でも小笠原佐渡守長重、今の群馬県 厩橋の藩主 酒井勘解由(かげゆ)忠挙(ただたか)は特に熱心だった。この二人は、ときの権力者で、仕官を望むものは、必ず両公の推挙が必要だったほどだ。
小笠原長重は若い頃から一刀流を学んでいた。激しいその剣は、世間からは「小笠原風」とか、「手強風」とかと呼ばれていた。月丹を師とするようになってからは、自宅に呼んだり、月丹の家を訪問し、稽古をした。八十三歳まで元気で、老後は佐渡守峯雲と号し、よく月丹を呼んでは、武芸の話に花を咲かせた。
酒井忠挙は柳生流の免許を受けた人であった。晩年は月丹の技に感動し、主として無外流を稽古した。六十三歳になってなお稽古に励んだことが記録に残されている。月丹も老いて酒井公の屋敷に通っていたが、「もう稽古は記摩多あるいは右平太でよい。月丹は月に三度ほど話に参れ」と言われ、能などが行われるときに必ず呼ばれるようになった。
11.第5代将軍綱吉
ときの老中 酒井雅楽頭(うたのかみ)へ推挙された。雅楽頭は幕閣の要職中の要職である。しかし、「指南役がすでにいるのに、そんなところへ老人が出ていくのはおもしろいことではない」と断ってしまった。もはや仕官したい思いはなかったようだ。
しかし、酒井公は「ぜひ会わせたい」と取り計らい、ときの五代将軍 徳川綱吉にお目見えとなった。
江戸に出てきたころ、まったく無名でその日の米に窮していたことを考えれば夢のようなことである。
これは林大学頭まで達し、「手続き上、御目見得願(おめみえねがい)を出すように」との指示を受け、このような願書を出している。
「 御目見得願書
私儀
御旗本方剣術御指南其外諸氏ヘ指南仕候数十年御城下ニ罷在候ニ付乍恐為冥加且ハ為芸術名利御目見之儀奉願候
以上
宝永六巳丑年
辻月丹」
「あなたの旗本やそのほかの方々へ剣術指南をして数十年になります。城下に住んでいますので、大変恐れ入りますが、お会いできますようお願いいたします」とでも言う内容の願い書だ。
これは月丹61歳の始めのことであった。
一介の剣客が将軍に会える。
その光栄はどれほどであったろうか。
日本全国探しても、「将軍に会える」という剣客はいただろうか。
月丹の一世代前、剣聖宮本武蔵でさえ将軍に会うなど、考えたこともなかっただろう。
その資格を得た剣客が辻月丹である。
しかし、残念ながら綱吉はそれからすぐに逝去したためかなわなかった。
このWEBの「辻無外伝」は意訳なので筆者注としてさらに付け加えておきたい。
こんなときに自分を飾る者なら、達観したような言葉を残すだろう。
しかし、辻月丹が残したのは以下の言葉だ。
「文照院様御他界に御座候。是偏に資茂の不運と可申候。」
資茂(すけもち)とは月丹の本名だが、なんとも等身大、月丹の息遣いが感じられるような言葉ではないか。
「資茂の不運」これを意訳すれば「俺はついていない」とでも言えばいいだろうか。
よほどの器であり、それを自覚していなければこんなに正直には書けまい。
しかしながら、貧乏のどん底にいた無名の剣士が、大名の入門殺到を経て、将軍へのお目見えの寸前までいったのだ。「不運」と唇をかみしめたであろう。
その後六代将軍家宣のとき、さらに願書をさし出すよう命じられている。
「 御目見得願書
御先代宝永六巳丑年加藤越中守様御用番之節願書差上申置候通私儀御旗本方其外諸氏ヘ剣術指南仕候数十年御城下罷在候ニ付乍恐為冥加且ハ為芸術名利
御目見之儀奉願候 以上
巳二月
辻月丹」
綱吉は宝永六年一月に、逝去している。約一年の後に右の願書を、御用番大久保佐渡守へ差し出している。
しかし四月には将軍宣下等があり、お目見えどころではなかったのだろう。この儀はかなわなかった。
月丹がどう思っていたかは、月丹のために骨を折ってくれた人への手紙の中に見ることができる。
「随分御勤めへ共終に不得志無念の事に候」
12.稀代の武道家死す
堂々たる大流派となった晩年は相当な暮らしができたようだ。
しかし、一生妻帯せず、剣術と禅学に精進を続け、79歳のときに病気になった。
享保12年6月23日永眠。
肉体は滅んだが、その志は代々受け継がれ、今の弟子たちに至っている。
葬られた場所は江戸高輪如来寺大雲院。諱は
無外子一法居士
(原文 国会図書館収蔵)
