04 空手指導 居合との出会い

04 塩川寶祥伝

空手指導 居合との出会い

9 下関で日本空手道会の種をまく

 昭和27年、空手道の普及に努められ、偉大な足跡を残された摩文仁賢和師範が亡くなられた。武道団体の常として、摩文仁生の死と共に一挙に糸東流は分裂して行くことになる。

 そのゴタゴタに嫌気がさした塩川は、下関に帰ることにした。溶接技術を持っていたので、造船所で臨時工として働くかたわら、摩文仁先生に指導を受けた空手を教えたいという気持ちになっていった。そんなある日、柔道場に見学に出向いた。

 食糧事情が厳しい中、そこではまだ十代だと思われる若者が、汗を流して必死に稽古に励んでいる。稽古後、空手の話しをしたところ、話には聞いていたが見たことはないと言う者ばかりで、異常に興味を示した。

 彼ら7、8名で空手道同志会を結成。学校の校庭や公園で稽古を始めた。これが後に日本空手道会、つまり塩川派糸東流となっていく。

 昭和28年3月、進駐軍に許され前年に復活した全日本剣道連盟の、戦後初めての昇段審査があるという噂を聞いた。矢も盾も堪らず京都の武徳殿に向かった。昇段審査を受けに行ったのである。塩川は経験がない飛び込みであったに関わらず、初段の部、二段の部、三段の部、四段の部と勝ち続け、なんと五段の部で7人抜きを成し遂げた。

 都合、11連勝の負け知らず。

 後年、塩川の弟子であり、筆者の師である宗家新名玉宗はこう言っている。
 「本当に命の奪い合いをした人だから、普通の人じゃないんだよ」

 全剣連は剣道五段の免状を与えた。

 「おかしいと思いながらも、剣道連盟は五段の免状を出さざるを得なかったんだろうな。その後、錬士の称号が来たが、ばかばかしくなってあの審査日以来、剣道は止めたよ」

 昭和28年には、沖縄古武道七段を取得している。糸東流の高丸治二理事長に誘われてのことであった。

 「空手をやるからには、武器術も知る必要がある。しかし、糸東流にはその伝承が無い」との高丸理事長の発案で、沖縄古武道の研究会を開こうという話が実現したのだ。講師は、当時その道の第一人者として知られた平信賢師範であった。

 講習会は連続1週間行われた。講習を受けたのは7人か8人だったそうだ。

 「それで七段の免状をもらったんだ。受講者は糸東流の師範クラスばかりだ。自分の道場を持っている者も多い。後々までも信賢先生について指導を仰ぐわけがないだろ。どうせやるなら、八段と言うわけにはいかないだろうが、六段も七段も同じことだ。信賢先生は「だったら」と七段にしたんだろう」

 塩川は忙しさの中ではたと気づく。殴り合いの稽古台にはなれても、肝心かなめの型を知らないのだ。興味がなかったので、ほとんど稽古もしていない。

 ところが、人に教えるとなるとそうも言っておれない。大阪に行っては、高丸理事長に型を習い、帰って弟子に教える「とんぼ返り」の毎日であった。その合間に、生活のため造船所の溶接工として働いた。

10 居合との出会い

 その忙しい時期に、塩川は居合との出会いをする。紹介は空手道の兄弟弟子、坪尾忠春師範であった。

 坪尾師範は、昭和26年頃から、無双直伝英信流宗家、河野百練師範に師事していた。塩川は河野師範を紹介された。

 また、同流の次期宗家と思われていた石井悟月師範とも知り合いになった。

 昭和29年には無外流宗家 中川士竜師範も紹介された。中川先生は姫路に伝わった無外流を高橋赳太郎師範に学んでいる。髙橋師範は姫路藩酒井家につかえる武士として生まれ、藩の剣術師範でもあった人だ。「大日本武徳会範士」であった大物である。

 塩川は、無外流居合を始めることになった。

 後年、弟子である無外流明思派 新名玉宗宗家が塩川に「なぜ無外流だったのか」を尋ねたことがある。

「無外流が一番速くて、一番合理的だったからだ。居合は殺し合いなんだぞ」

と言われたそうだ。
 繰り返し言うが、18機撃墜のエースパイロットの腕前を持つ、命のやりとりを知っている武道家ならではの視点、言葉が今の「塩川・新名伝」の特徴となっているような気がする。

 杖道との出会いは、昭和31年、東大阪の布施の公民館であった。この公民館で、仲間が空手の指導をしており、応援に行ったのだ。たまたま、同じ場所で杖道が稽古をしていた。

 稽古を見学していたが感心した。その時、杖道の指導をしていたのが中島浅吉師範である。中島師範は、筑前黒田藩に伝えられてきた神道夢想流の杖を全国に普及させた功労者である。

11 下関に道場を持つ

 公園、保育園等の場所を転々として、空手の指導をしてきた塩川が道場を持ったのは、昭和30年の春。山口県下関市彦島の弟子待(でしまつ)町である。

 トタン屋根、バラック建の道場であるが、塩川にとっては、掛け替えのない稽古場、念願の道場であった。

 空手という物珍しい武道が下関に根付いたのである。噂は広がり、会員は急増した。バラック建の道場には入りきれず、道場前の道路に溢れ出て稽古は行われていたらしい。

 昭和30年代。新生日本の建設の時代だ。

 剣道、柔道、合気道、空手道、居合道、杖道。そんな武道界の再構築も始まった。

 塩川の大活躍の時代である。柔道においてさえ、剣道と同じように五段まで取得していた。

 昭和30年代には全国で空手の大会が始まった。39年には全日本空手道連盟の設立があり、本格的な全日本大会が始まる。

 そこで、昭和31年から、塩川門下による大会荒らしが始まった。進駐軍後援の第1回全九州空手道大会が開催されたのは昭和31年。飛び入り参加を弟子にさせている。

 「ユーの弟子は二段だ。俺は五段だ、師匠であるお前が俺と戦え!」と迫ってきた大男は、新聞で前評判の高かったスロマンスキーという軍人だった。身長が肩ほどしかない塩川を見下ろし傲然と胸を張った。

 実戦でならした塩川は、内心舌なめずりをしたであろう。

 「分かった、弟子を倒したらな」

 結果は弟子の圧勝である。これが新聞に大きく報道されたため、北九州、遠く広島からも入門の問い合わせが相継いだそうだ。

 実戦にあけくれた、武者修行の日々は終わったが、その華の開くときが来たのだ。