06 無外流が全剣連で大旋風

塩川寶祥伝

無外流が全剣連で大旋風

16 日本空手道会誕生

 高野山を後に、東京へと向かった。

 西武新宿線、花小金井にアパートを借り、東洋鍼灸専門学校に通い、柔道整復師、鍼灸マッサージの国家資格を取得。のちに流行するカイロプラクティックの資格まで取得。昭和38年春であった。

 「貰えるものは何でも貰うさ。役に立つことがあるかもしれんからな」

 混沌とした時代を生き抜いてきた貪欲な強さを感じるエピソードである。それを裏づける、前後に取得の資格を列挙したい。

 昭和38年5月5日   居合道七段(全日本居合道連盟)

 昭和38年5月5日   居合道六段(全日本剣道連盟)

 昭和38年5月5日   居合道錬士(全日本剣道連盟)

 昭和38年5月9日   杖道錬士(全日本剣道連盟)

 昭和38年11月17日 十手術教士七段(大日本武徳会)

 昭和38年11月17日 鎖鎌術教士七段(大日本武徳会)

 昭和41年11月21日 居合道七段(全日本剣道連盟)

 昭和42年5月17日  居合道教士 (全日本剣道連盟)

 昭和44年3月1日   空手道八段 (糸東流、摩文仁賢栄)

 昭和45年2月15日  槍術範士九段(光厳流、釈顕實)

 昭和45年11月16日 杖道教士 (全日本剣道連盟)

 武道においては、どこから段位や資格が発行されるかがこれを見ても重要であることもわかる。
 国際居合道連盟として、鵬玉会が無外流最大団体になることを重要視したのはこの一点である。

 さて、昭和39年6月3日、衆議院議長公邸で国会空手道連盟結成記念大会。
 10月1日に国立教育会館で全空連結成の会議がもたれた。
 そして、ついに各流派統一の全日本空手道連盟が結成され、11月14日、結成記念大会が日本武道館で行われた。

 この記念大会では、糸東流を代表して4人が演武を行った。4人とは、宗家の摩文仁賢栄師範、関東代表の岩田万蔵師範、関西代表の高丸治二理事長、中国・九州代表の塩川先生(空手においてなので先生という敬称を使用)の4人である。

 全空連の初代会長は、早稲田大学総長の大浜信泉先生であり、塩川先生は39歳という若さで評議員となった。しかし、全空連結成を期に、塩川先生は東京を後にして下関に帰ることとなる。

 全空連をまとめる笹川良一先生ともめた塩川先生に、笹川派は攻撃を開始した。そして全空連で、塩川先生の査問委員会が開かれてしまう。かつてMPに捕まったことを指して「刑務所に入った人間を評議委員にしていて良いのか?」ということを問題にした。しかも、先生が不在のまま委員会は開かれた。

 これに対し、塩川先生は怒って全空連の評議員を辞任。その上で、新たに日本空手道会を立ち上げる。その組織図は関係者を驚かせる。

日本空手道会役員

 名誉会長 岸信介(この数年前に内閣総理大臣を退任)

 会長   安部晋太郎(すでに衆議院議員であり、この数年後に農林政務次官;安部晋三元内閣総理大臣のご尊父)

 総本部長 塩川照成

 理事長  小西御佐一

17 「無外流?」全剣連で大旋風

 昭和30年代の後半、先生が下関に帰ってすぐの頃のこと。全日本剣道連盟主催の居合道全国大会に初めて出場した塩川先生は、大旋風を引き起こすことになった。

 ベスト16に入ったのだ。しかも、当時の無外流とは、誰も知らない小さな流派であった。情報も今と違いなにもない。

 「無外流?それって何だ?」という状態であったらしい。

 そんな中、塩川先生は、全剣連の全国大会に出場し、個人戦では準優勝、団体戦では優勝を飾っている。

 審判員はむろん全て他流派であるから敵地で戦った末の準優勝である。

 無外流の名前を知るものもほとんどいない中、まさしく孤軍奮闘と言うほかない。

 無外流の名前を全国に広めた塩川先生を本来の中興の祖と言うべきかもしれない。