塩川寶祥伝
居合道界の大物へ
18 「塩川伝」無外流、全国区へ
全剣連の居合道の大家、夢想神伝流の紙本栄一範士は山口県に住んでおられた。
「東の壇崎、西の紙本」と当時呼ばれた武道家である。
その紙本師範は言う。
「塩川さんが、大きな流派であったなら、もっと素晴らしい成績を収めていただろうに」
残念ながら、この世界には忖度もあれば、偏りもあった。
それは今もほうぼうに見ることができる。人の世界のことなので仕方がない。
そこで、紙本先生は塩川先生と相談の上、無外流の形を、全剣連の大会に合うように少し変更された。
塩川先生の無外流は、中川先生の中川伝とは少し異なる。石井悟月14代宗家、紙本栄一師範の影響で、現在の塩川伝になっている。
このようにして、塩川先生の活躍と、臨済宗老師 大森曹玄老師の著作で無外流は全国に広まっていくことになる。
ここで大森曹玄老師についても知っておきたい。
日本の仏教は、皇室が天台宗、貴族が真言宗、一般庶民は真言宗系とおおまかに分けられる。そして、生死が常に日常にある武士は、その生死と向き合わざるを得なかったところから禅宗と深くつながるようになった。その禅宗の中でも、臨済宗と武士は密接な関係がある。無外流の流祖辻月丹も、臨済宗妙心寺派の麻布の吸江寺に参禅することで、無外流誕生となった。
この大森曹玄老師も臨済宗の禅僧である。山岡鉄舟翁ゆかりの高歩院の住職、花園大学の学長と、まさに尊敬を集める人だが、剣でも有名だ。
直心影流剣術第15代・山田次朗吉先生門下の師範であり、山岡鉄舟翁についての著書もある。そしてかつての剣客たちの著述を研究した。
「流祖たちは学がある人は多くない。ひらがなしか書けなかった者もいる。その中で漢籍で文章が書けたのは無外流の辻月丹だけである。
さらに自流と禅の関係に触れる人は多いが、「わが剣は禅なり」と言い切ったのは無外流の辻月丹だけだ。」というようなことをおっしゃっている。
この臨済宗の大物、大森曹玄老師が興味を持って塩川先生に弟子入りされた。
わが師新名宗家に聞くと「塩川先生は、大森曹玄老師からの月謝の袋を喜んでいたよ。『わしに大森曹玄老師は月謝を払って無外流を習いに来てくれたよ』と」
大森曹玄老師は無外流の伝書の解読もされた。私たちが今無外流の座学に触れることができるのは、この大森曹玄老師によるところも大きい。
また、無外流と老師の関係についてのもう一つ忘れてならないことがある。無外流免許の巻物は、中川先生が戦災で焼失された。今免許が無外流の古式にのっとり発行することができるのは、大森曹玄老師が高知県で見つけられたからだ。
それを中川先生に渡され、復活した。
私にまで免許と言う形でこの歴史が回ってきたことをありがたく思い、責任を果たして次代へつなぎたい。
ちなみに鵬玉会は、山岡鉄舟翁も通われた、同じ臨済宗妙心寺派 恵林寺の古川周賢老大師に指導を受け、禅に触れている。
19 全剣連の依頼で全国普及行脚
鍼灸学校を卒業した塩川先生は昭和40年に下関に帰り、杖道と居合道の普及活動に邁進する。
杖道は、中嶋浅吉師範と二人で全国各地を飛び歩き講習会を行った。
昭和42年、流祖夢想権之助が杖術に開眼したという伝説がある福岡の宝満山で、権之助神社の建立が行われた。その際、杖道普及の功績が顕著である、との理由で頭山満先生のご子息である頭山泉会長と清水範士に特に選ばれ、塩川先生は中嶋先生と共に感謝状と金杯を授与されている。
後に中嶋先生との関係が疎遠になっても、塩川先生は、主として空手道の関係者を通じて、杖道の普及活動は続けた。ヨーロッパは塩満、大上両師範の和道流空手道を通じて、アメリカは崎向師範の少林流空手道を通じてであった。
しかし、比重は全剣連の居合道の方に移っていった。紙本栄一範士、富ヶ原富義師範、そして塩川先生の3人による普及である。
富ヶ原師範は後に、剣道連盟居合道範士九段になり栄達を極めることになる。
居合道も杖道と同じく昭和31年に、剣道連盟居合道部として発足。昭和44年には、全剣連の制定居合が定められた。
剣道連盟からの大号令は、「剣道家たる者、竹刀だけではだめだ!本身の刀を習得せよ。五段以上は必ず居合を修めろ」
という主旨であったそうだ。
困ったのは各県の剣道連盟である。適当な指導者が居ない。そこで白羽の矢が立ったのが、無双直伝英信流の重鎮であった紙本師範と直弟子の富ヶ原師範、そして、無外流塩川先生の3人である。

かくして、3人の行脚が始まった。中国地方を中心に、九州、四国、関西、北陸にまでその足跡は延びている。
たとえば、ある県の講習会に招かれたとする。その地区の剣道五段以上が集まった席で、「水戸黄門」にたとえるなら、黄門の紙本先生が講義をされる。その後、二班に分かれ、助さん役の富ヶ原先生が夢想神伝流を、格さん役の塩川先生が、剣連の制定居合の指導。そして、交代して指導。
ようは、夢想神伝流と剣連の制定居合を指導して回ったことになる。
「無外流を指導したかったよ。しかしまさか、紙本先生の手前もあって、教えるわけには行かなかった」
その時に、塩川先生が指導して認め、段位を与えた剣士が、後の、そして現在の全剣連の八段範士の中に相当数存在していることになる。
これほどの活動をしたことから、紙本先生と富ヶ原先生は、全剣連で栄光に包まれ、その生涯を終えた。
一方、それほどの普及活動をしたにもかかわらず、後に塩川先生は全剣連と大喧嘩をしたために、大事にされるどころか忌避されることになった。
全剣連とはともに歩まず、独立独歩だったと思われがちだが、これらの事実で塩川先生の時代は全剣連の居合の中の中心にいたことがわかる。
紙本先生だけは、晩年まで、「塩川さんには、悪いことをした。悪いことをした」と言われていた。塩川先生は、紙本先生の言葉だけで満足されることになる。
