09 全剣連から離れる

アイキャッチ写真)臨済宗 大森曹玄老師(花園大学学長)に無外流を指導する塩川先生

塩川寶祥伝

全剣連から離れる

22 全剣連からの排除

 塩川先生は、杖道の普及活動は続けていた。また、全剣連に選手としては出場することは無かったものの、紙本先生との関係もあり、居合の普及活動も続けていた。

 そのまま行けば、全剣連の杖道と、居合道の最高権威になっていたと言われる。

 しかし、全日本空手道連盟もそうであったように、今度は全日本剣道連盟と喧嘩をすることになる。

 ここを避けては、新名宗家になぜつながるか、鵬玉会への道も見えて来づらいのでこの決裂を語らざるを得ない。
 ただし、それぞれにそれぞれの理由もあるかと思われる。どこかを非難するような姿勢はとらずに極力事実関係からの記述にとどめたい。

 きっかけは、杖道の昇段審査であった。
 だが、おそらくそれ以前から全剣連では、塩川寶祥の存在を煙たく思っていたようだ。

全剣連全国大会中央。優勝を決める。
全剣連全国大会中央優勝で17回剣道選手権時、日本武道館で NHKが全国放映した

 昭和59年、山口県剣道連盟で杖道の昇段審査が行われた。塩川門下の受審者も多くいたが、特筆すべきは、スウェーデンから審査を受けに来た者が3人いたことである。このことが問題を深刻化させることとなった。

 戦後、再出発をした剣道連盟もこの頃には組織として落ち着いてきていた。杖道、居合道については、昭和31年の新たな発足である。当然指導者が居なかった。
 その中で塩川先生は請われるままに普及活動に邁進していた。組織発足時の混乱期のヒーローである。
 そしてヒーローは、その並はずれた行動力ゆえに、組織が整備されてくると、むしろ邪魔になってくる。

 その年も、全剣連の審査規定をそれほど斟酌することなく、塩川先生主導で昇段審査が行われた。
 ところがこの年初めて、「この昇段審査は審査規定に抵触する」と問題になった。 

 「審査規定で、審査員の人数を満たしていないだと!ふざけた事を言うんじゃないぞ!では、俺が弟子の宮瀬(師範)と2人で、請われるままに手弁当で各県を回って、居合道の段をどんどん出したが、ありゃどうなるんじゃ!

 その連中が、今では、みんな立派な高段者になっちょるが、俺がそれを公にしたら、全剣連はひっくり返るぞ!」

 全剣連はこうして段位をどんどん発行したことによって、昭和55年の審査規定ができるような体制になっていたと言う。

 塩川先生が、時代の空気を読めればよかったのかもしれない。しかし、空気を読めない大物が大きな組織にいれば、やがて組織維持には困る存在となる。

 

23 一斉に全剣連を離れた門下

 山口県剣道連盟は、塩川先生に事態収拾のために再度、昇段審査を行ってはどうかと提案した。しかし、塩川先生は拒否。

 そもそもスウェーデン人はそのために来日し、すでに帰国していた。
 塩川先生は窮地に追い込まれた。
 どう考えても、この提案には無理があるのは誰の目にも明らかだからだ。

 さんざんもめたあげく、昇段審査は認められることになった。
 塩川先生が責任を取って全剣連杖道部を退会することを条件にしたからである。このことがさらに大きな問題に発展していく。

 塩川先生は、本当に杖道の活動をやめる気持ちであったという。自分一人が止めて、弟子は全剣連にそのまま残ればよい。しかし、塩川門下は、先生と行動を共にした。

 その後、全剣連からの塩川一門に対する妨害活動は続く。

 そこで、昭和60年、いったん解散した「全日本杖道連盟」の狼煙を揚げることになる。

 そもそも、かつての全日本杖道連盟の会長である頭山泉先生は昭和三十一年に全剣連の加入に反対だった。頭山泉先生は頭山満先生のご子息である。その頭山泉先生を訪問して、復活全日本杖道連盟の会長になっていただくように依頼をした。

 しかし、頭山先生は設立の主旨には賛同されたものの、会長就任については、自分は老いたと言って固辞された。

頭山満先生 13回忌

 そこで、塩川先生は安部晋太郎氏に初代会長になって頂いた。その後、二代目会長は三塚博氏、そして三代目は安部晋三元総理となった。

 早逝されなければ、総理大臣就任が確実視されていた政界の実力者、安部晋太郎氏が会長である。これで国体種目に正式加入することを公言したのだ。

 実はこれは、全剣連杖道部のアキレス腱であった。剣道連盟に所属する限り杖道は、国体種目になるのは不可能なのだ。

すなわち一団体一種目という規定があるからである。

 しかし、塩川先生率いる全杖連は全剣連と別団体。だから、国体種目をめざすことは可能であった。

 会員千数百人、二十都道府県に組織をもつ団体。全剣連にとっては取るに足りないといえるが、国体種目にある銃剣道よりもはるかに大きかった。
 もし、杖道が国体種目としての地位を確保し、塩川先生がその頂に立っていたら、その後の武道界の地図はどうなっていただろう。

 起こらなかった歴史を想定してもせんないことながら、全杖連の内部分裂が起こり、塩川先生の目標は達成されなかった。大変残念なことだったろう。