アイキャッチ写真)宗家伝承の鍔 NHK放映後、「次の宗家を」と中川宗家から塩川先生に贈られた
塩川寶祥伝
新名豊明登場
24 青年 新名豊明の入門
この前後、合気道を学んでいた1人のまだ20代の武道家が塩川先生に入門する。
ここからの、学んでいた時代を塩川先生をそうしたのと同じ理由で、敬称略で記載したい。
後の宗家 新名豊明である。
三菱重工株式会社に勤務していたから、当時の超エリートである。実際に海外を飛び回っていた。
「下関に赴任していたときからだったかもしれないが、記憶にない。合気道を修めるためには本格的に居合を学ばなければならないと思ったんだ。
下関に凄い先生がいる」と聞き、学ぶならこれだと入門を決めた。偉大な先生だった。私は身近にいて学ぶことができたことを幸せに思うよ。
ときどき会社を1週間や10日休んだりしてね。先生の道場で深夜まで稽古していたことを最近よく思い出すんだ。塩川先生は「おい、ここは俺の道場だから自由に使え」と言ってくれる。」
「夜10時くらいまで指導を受けたあと、そのまま道場で一人稽古をするだろ?
先生は「俺はもう上に上がるからな」と階段をのぼっていく。しばらく稽古をしていると、ビール瓶を片手に降りてきてこう言うんだ。
「新名、足が違うぞ」
見ていないのに、なぜわかるのか?音を上で聞いていて、「違う」と気づいたんだと、あとあと気づいたけどな。当時はびっくりしたなあ。」
「膝を3センチ出せ、拳を2センチ落とせ!といつも具体的だったよ」
自分が見る地平をひょっとしたら見ることができるかもしれない才能が垣間見える弟子。そんな弟子を見つけることは、砂浜の砂の中から宝石を見つけ出すようなものだ。
塩川先生にどんな見え方をしたのか、聞いてみたかった、と思う。

25 普及への覚悟
生きる、死ぬ。
「殺すか殺されるか」の修羅場と直面した、死と隣合わせの世界。
この現実と向き合う武道の世界は過酷だ。
しかもその武道や流派を自分が責任をとって背負うことは並大抵ではない。
剣聖宮本武蔵も29歳のときに巌流島での佐々木小次郎との試合のあと、修羅の世界を離れている。そして、60歳で「五輪書」を残してこの世を去った。
塩川先生も昭和39年、30歳にしてトタン屋根のバラック立ての道場を建てた。宮本武蔵と同じくこの頃に、修羅の世界を離れ、普及の時代へとステージを移したのだ。
塩川先生は30歳から、武道界唯一の実戦武術家として、冠たる位置を得た。
レーダーもない時代に紫電改を駆り、敵機を18機撃墜し、3回撃墜されたが、瞬時の判断で生き残った。
戦後の混乱期に博徒相手、進駐軍相手の大暴れを繰り返し、それでも致命傷を負わずに生き残った。
糸東流空手の開祖摩文仁賢和先生、合気道の創始者 植芝盛平先生、杖道の統(頂点)乙藤市蔵師範、中嶋浅吉師範の高弟として命を賭けた、過激な他流試合を繰り返した。
無外流13代宗家中川士竜先生、14代石井悟月先生の後継として無外流で勝負の土俵に出た。
戦後の混乱期とは言え、このような武道家は他にいない。
バラック建ての道場。修羅の道に生きてきた塩川先生が、実戦武術家として生きていこう、後進を育てることを選択したのだ。その道場から見えた青空の色はどんな色だったろうか。


26 次代へ譲る
塩川先生も80歳になられた。
塩川派糸東流空手道は、御子息、塩川尚成師範に2代目を譲られた。
神道夢想流杖術の後継者は、岩目地光之師範。
ほとんど孤軍奮戦して、日本全国にその名を広めた無外流居合兵道については、中川伝は弟弟子である小西御佐一師範が継承。
塩川伝は、いったん16代を新名玉水(当時)先生に譲られている。平成19年(2004年)には東京都中央区の区民新聞には、15代塩川宗家、16代新名宗家の名前が併記された上での「日本橋に道場開き」を知らせる記事がある。
15代塩川先生、16代新名先生の武号の1文字ずつをとり、「寶玉会(ほうぎょくかい)」として日本橋地区に常設道場を出したのだ。
当時自由民主党の幹事長だった安部晋三、後の総理大臣からも祝電が届いたと区民新聞に記録されている。
「鵬玉」「鵬玉会(ほうぎょくかい)」は意図されたかどうかは定かではないが、結果としてこの音をいただいている。それは重要なことだと、ここまで読めば重さに思いいたるであろう。
「俺は組太刀の大会をしたかった。何が「怖い」だ。これが無ければ武道じゃないだろう?」
その理想は、鵬玉会が夏の自由組太刀の全日本として現実化した。
「俺は「斬れる居合」だと言ったんだ。形の初太刀で斬れないで、何が居合だ」
その理想は、鵬玉会が秋の試し斬りの全日本として現実にした。
「斬れる居合でなくて、何が形だ。そんな形の踊りにもう興味はないんだ。」
そこで、斬れる居合の形を競う大会として、また武道の権威として最高の舞台「京都武徳殿」での冬の全日本として現実化した。
それらを考えてみれば、塩川宗家の理想を継ぐ新名宗家が、武田鵬玉を作り上げ、この道をたどっているのだと思う。
なお、塩川先生は新名先生に16代宗家を譲られながら、新名先生の弟子であった岡崎寛人先生に譲り、現在に至る。
新名は、三菱重工を退職、塩川先生と袂をわかった後に「無外流 明思派」を名乗る。武道教授団体「吹毛会」を設立。その後吹毛会を15の団体に分け、明思派を、その総数で国内最大級の一門にしている。
後、平成11年1999年宗家継承。
ここからは敬意をこめ、わが師を新名宗家と呼称したい。
武道において、「わが師」と呼べるのは大変な重さがある。
巻物も、師の名前で出される。この「誰の名前で出されたか」が重要なのだ。
さて、新名先生が宗家を継承され、寶玉会として日本橋に道場を開いた2年後の2006年、後に鵬玉会設立を宗家に指示され、その会長として無外流最大の「国際居合道連盟鵬玉会」という法人を作ることになる武田鵬玉が入門した。
極真空手から数えて2025年で50年にわたり、武道の世界にいる男が登場したことになる。新名宗家はのちに「わしは武田さんを見つけた」と表現してくださっている。