武道を考える 空手の大会で起こった不幸な事故
【ネットで騒がれている、空手の大会で起こった危険な瞬間】
凄い勢いで空手の大会での衝撃的な事故の動画がほんの数日で拡散しました。
見られた方もいらっしゃるでしょう。
ご存じない方のために、この動画を見たまま記載して、考察をしたいと思います。
小学生がフルコンタクト空手で戦っている。
相当練習した同士のようです。
向かって左の選手のパンチが右の選手のあごに入ったようです。
主審の「止め」が入ったようです。
フルコンタクト空手であっても、顔面へのパンチは危険なので反則なのです。
右の選手は小学生ですから、自分のセコンドに向かって歩いて行きながら「あごを叩かれた」と訴えている、そんな瞬間、左のセコンドから「いけー!」というコーチの声が聞こえます。
その瞬間、左の小学生は脱兎のごとく右の選手に向かっていき、後ろを向いてセコンドに歩いて行っている無防備な彼の後頭部を前蹴りで突きました。
右の選手は完全にノックアウトされたように前に突っ伏していきました。
「これをどう見ているのか?」という質問を数件いただきました。
すぐにお答えしたかったのですが、ご宗家の奥様ご逝去と、葬儀関係があり、お返事が遅れたことをお詫びします。
この事件が起こった直後にはモザイクもぼかしも入らない動画が出回っていました。
今はモザイクやぼかしを入れたものの拡散が続いているようです。
攻撃した方もされた方も子どもですから、大人の責任の深刻さは並大抵ではありません。
基本的に武道の指導者は、私たちがイメージする、「姿三四郎」を導く師のような武道家 ではありません。技術は学んできたが、精神的な修養も、学問的な成長もなく、ある日コーチのようになった人が多いのは事実です。
私はそのような姿になるのは武道に対する裏切り行為だと思うので、座学を内弟子たちには教え、恵林寺の老大師に禅を学び、弟子たちにも学ばせ、武道家への道を開かせようとしています。「脳みそや心までが筋肉であってはいけない」と私の言葉を聞いた弟子は一人やふたりではありませんから、彼らに聞いていただけばいいと思いますが、そのようなことを学ぶ環境はほとんどの組織はありません。
素晴らしい術は、奥深い道につながっていなければなりません。
では私の見方をここに記録しておきます。
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■ 武道の基盤は武士道でなければならない
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武道は武士道にその基盤がなければならない。
もし、武士道にその基がなければ、武道はただの殺し合いの技術である。
柔道も空手も剣道も合気道も、あるいは派生するすべての武道が生殺与奪の権利を争う技術として誕生している。
武道がスポーツと違う一つは、本来は歴史の上で実践され、実証された「殺人の技術である」という点だ。
■ 「武士道」が技術に魂を与える
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武士道はその技術に魂を与える。
武道の技術を磨きに磨き、その技術を鞘に納めたままで使わずに相手を活かすことを求めるのが武道の最終目標となるのは、そこに「武士道」という魂があるからだ。
禅を修養し、自分が生きる死ぬことを考えるだけではなく、相手のことを考える。
それがかつてのサムライの求めた成長の道だ。
■ 道を求めるからこその「道場」であり、「教室」ではない
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武道の稽古場所を道場というのは、上記のように道を求めるからだ。
道場は決して「教室」「稽古場所」ではない。
道場が「教室」「稽古場所」となったときに魂は失われてしまう。
■ 「私を産んだのは父母である。私を人たらしめたのはわが師である」(新渡戸稲造翁)
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その前提で考えれば、まず指導者の存在価値は技術を伝えるだけではない。
道を示すことだ。
新渡戸稲造翁が160年前に「武士道」でこう言っている。
「私を産んだのは父母である。私を人たらしめたのはわが師である」
師として、道を示し人としての成長を手伝えるか。それが重要だというのだ。
それに挑戦する武道の指導者は師であって、「コーチ」ではない。
ところがその存在価値を失い、相手を踏みつけても勝つことを教えたときに武道はただの殺人の技術に堕する。
■ 命を受け止めてくれる相手への尊敬
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試合は、命をぶつけ、受け止めてもらうものだ。
命をぶつけることができるのは、受け止めてもらえるだけの技術がある相手がいるからだ。
それを理解したときに、必死で自分の命を受け止めてくれる相手への尊敬が生まれる。
尊敬がなければ、何をしようが勝つ事への快感を求めようとするだろう。
勝利の瞬間、勝ったことを主張するためにガッツポーズでアピールするだろう。
負けた瞬間、自分は負けてないと過敏に主張したくなるかもしれない。
これでは人では無く獣だ。
快感があるのは事実だから、誰もが心の底にそんな獣が存在していると言えるだろう。
そんな獣の心に打ち勝ち、人を人たらしめるために、師は道を示すのだ。
その挑戦は師にも学びを要求する。
師には覚悟が必要だ。
■ 武道の結界は戦場だ
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戦場に立ったら、その戦場から離脱するまでは伏兵がいるかもしれない、という戦の心構えを知らなければならない。
武道の試合においては、通常「コート」は外の世界と分けて考えられる。
その切れ目は結界だ。
結界の中に敵がいるのに後ろを向くことは危険な行為であることを師は教えなければならない。
武道はスポーツではないから、師には「戦場を去るまで敵はいるかもしれない」と教える義務がある。
■ コーチ、蹴った選手、蹴られた選手、審判
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さて、上記を考えれば、
この事故を招いた指導者は師ではなく、ただのコーチであった。その点では指導者ですらない。エンターテインメントとしてのプロの世界ならまだしも、武道の指導をするべきではなかったのではないかと思う。
止められなかった主審は、暴漢が学校に入って来るのを呆然と見ていた教師のようなものだ。主審をするということは、結界の中で事故を決して起こさないぞ、双方がはらってきた努力を公平に扱うぞ、という覚悟が必要だ。
攻撃した選手は、たとえコーチの声が攻撃を示したとしても、相手へのリスペクトを持って踏みとどまらなかった点で獣であった。武道の師に出会わなかった彼は不幸であった。生涯この行為は彼の心から離れないだろう。大人の責任である。
攻撃を受けた選手は、後ろを向いてはならなかった。戦場の心構えを誰からも学べなかった彼は不幸であった。後遺症が残らないことを心より祈りたい。
■ 彼らが学んだのは、ただの技術
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彼らが学んだのは素晴らしい武道としての空手道ではなく、殺し合いの技術であった。
だから倒れた子どもの対応ではなく、「どうしたらいいか」を主審・副審が集まって協議したのだ。こんなに無様な大人はいない。
誰も子どもたちの怪我に責任を持っていなかったのだ。
空手云々以前の話だ。
■ 誰とつきあうかは重要だ
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この空手団体がどこであったのかは知らない。
その直後に強いリーダーシップで対応がなかったことを考えれば、この団体とは私は関わるのはいかがなものかと思う。
■ 道からぶれることなく学び、成長しよう
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武道は殺し合いの技術では終わらない。
自分を極限まで磨き、自分の気持に勝つ。
これを新渡戸稲造翁は自分の心に打ち勝つ心として「克己心」と言い、山岡鉄舟翁はサムライがめざす「施無畏」と言った。
その成長があるから感動があるのだ。
私たちが目指す武道は、その道からぶれることなく成長を目指したい。 鵬玉会はこの事件からさらに学び、本来私たちに社会が求める「人としての成長」を導くお手伝いをしたい。
この件に関しては、ネット上でモザイクがかかった動画を見ました。
モザイクがかかった状態でも非常に衝撃を受け、最後まで見ることはできませんでした。
経緯などは文字で読み、それでも「自分の子供がこんな目にあったら」ととても動揺いたしました。
そして一方的に「この後ろから蹴りを入れた子、指示を出したコーチが悪い」との思いにとらわれ、それ以外のことは考えられなくなった気がします。
自分自身、今は再婚して夫がおりますがシングルマザーとして子供を育てていた時期もあり、現在夫がいるとはいえほぼ単身赴任状態で「子供を守れるように強くなりたい」という気持ちは大きく、子供が小学校高学年になった今でも「二人でいるときに何かあったら、子供を守る術はあるのだろうか」という思いは抱き続けております。
居合の道を選んだのも「徒手では守れない」という思いがあったからだと思います。
ただ、居合道は武士道であり、習い事でもあり、武道と実践の線引きができず、場所長を頂いた身でありながら自由組太刀はすこぶる弱く、覚悟も技量も足りていない。
まったく中途半端な場所に立っているだけ。
ということが、今回の件であらわになった思いがいたします。
「強くなりたい」というのは、武道をやっている者にとっては共通の思いであると思います。しかし
「教室」ではなく「道場」
「コーチ」ではなく「師」
この意味を、あらためて理解しなければいけない。
そう強く思いました。
鵬玉会には「道場」があり「師」がいてくれる。
これを次の世代に伝えていくためにも、今一度理解し体現していかねばならないと再認識させられる良いきっかけとなりました。
会長のお言葉で深くお考えを示していただき我々にお伝えくださったこと、本当に感謝いたします。