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【ネットで騒がれている、ブラジリアン柔術の体験で起こった事件】
やはり今回も凄い勢いでブラジリアン柔術の体験での衝撃的な事件の動画がほんの数日で拡散しました。
見られた方もいらっしゃるでしょう。
ご存じない方のために、今回もこの動画を見たまま記載して、考察をしたいと思います。
5歳の男の子がブラジリアン柔術の体験をしている。
投稿者はお母さまで、3分のスパーリングを10セットほどしていたそうだ。
事前にタックルと足払いを教えてもらっていたとのこと。
何かで激昂した先生が、5歳の子の胸倉をつかみ、壁に押し付けて怒ったため、彼は失禁し泣きじゃくっています。
上記の内容ではこの内容はまったく伝わらないかもしれません。
家内に、このお母さんがアップされていた動画を見て、家内は憤慨していました。
母としての怒りですね。
ブラジリアン柔術のその道場も反省をしたと聞かないし、おそらくあるだろう連盟も何もコメントがない。大人としてこれはいかがなものでしょうか。
私も、武道の指導者として、これを黙っているのは信頼を損なうものだと感じるので、コメントしたく思います。
一点誤解がないようにしておきますが、ブラジリアン柔術自体を攻撃するつもりはありません。技術を追い求める素晴らしい競技だと思いますし、どんな世界にも反省すべき人はいます。大人であっても反省は必要ですし、私は偏見を持つことはいつも避けたいと思っています。
さて、基本的には、前回の空手の大会での事故と、鵬玉会が考える姿勢は同じです。
ただし、今回は子ども同士ではなく、指導者と子どもなので、そこを論じなければなりません。
前回も言及しましたが、基本的に武道の指導者は、私たちがイメージする、「姿三四郎」を導く師のような武道家 ではありません。技術は学んできたが、精神的な修養も、学問的な成長もなく、ある日コーチのようになった人が多いのは事実です。
普通の武道でさえそうなのですから、ブラジリアン柔術の心ある先生や運営側のご苦労は察してあまりあろうかと思います。なんとなれば、ブラジリアン柔術は柔道や剣道と違い、日本に入ってきて日の浅い”武道”(” “つきなのは,いわゆる、あるいはそう一般的に思われている、ということです。)だからです。
こちらにはくわしくありませんから、浅学で申し訳ありませんが、ブラジリアン柔術の歴史を考えてみたいと思います。ここを理解することで、今運営の方たちがおそらく抱えていらっしゃる問題が見えそうな気がするからです。
もともとブラジリアン柔術は、日本人柔道家「前田光世」先生(以下敬称略)がブラジルで教えた柔道を起源としているのは有名な話です。ブラジルで独自に発達し、ブラジル人であるカルロスから学んだ、カルロスの弟のエリオ・グレイシーにより、技術的に完成された、方向性が決まった、とされています。エリオは、「木村の前に木村なし。木村の後に木村なし」と言われた、柔道最強の男だった木村政彦に負けたのをきっかけとして、さらに技術を磨き、そのご子息であるヒクソン・グレイシーの代で世界的にブラジリアン柔術を知らしめました。
件のお母さまも、ブラジリアン柔術がいわゆる”武道”であるかと誤解されたかと思います。もちろん、ブラジリアン柔術を武道たらしめようとがんばっていらっしゃるすばらしい指導者もいらっしゃるかもしれません。ただ、歴史的な事実だけで見なければ、お母さまの誤解であったことがわかりません。
この歴史を見る限り、ここに新渡戸稲造翁に象徴されるような「武士道」も、「論語」に象徴されるような四書五経も、禅も何もかもブラジリアン柔術には関係ないのです。
そもそも「柔術」と言っても、日本のものとして成長したわけではないのですから。
南部盛岡出身の新渡戸稲造翁は、アメリカ人の奥様から「欧米にはモラルの基準としてキリスト教がある。日本人には、そんな基準はある?」と聞かれて「ある。武士道だよ」と答えたと言われます。それを奥様に理解してもらうために、世界でベストセラーになる「武士道」を書いた、というのは有名な話です。
同じように、各種の武道には、拠って立つべき理想の姿が書物や教えとして伝わっているでしょう。それがないのは外国です。もちろん素晴らしい人はいらっしゃるでしょうが、私たちも外国の方に教えても、どうしても深くまで伝わらないし、理解してもらえないと感じるのです。
それはこのメンタリティ、心です。
これは歴史や書物や、座学によるところが大きいのです。
「無外流は禅によって教導いたすところ」と流祖以来言われるため、山岡鉄舟翁も通われた甲府の恵林寺に足を運び、老大師に課題をいただき、座学を学び、なんとか武道家のあるべき姿を求めます。
沢庵和尚が禅と剣との関係性を著述したのも、禅を学ばなければ勝てない、というところからでした。それがなぜかは別で記述するとして、禅を学ぶことで、日本の剣は精神性の強いものになっていったわけです。
精神を磨く、というのはなかなか難しい。
だから「薄皮を重ねるように日々努力する」ということになります。
こういう思考法は、日本においては共通常識として心の奥底にあるようです。
昨日より今日。今日より明日。まだ見ぬ自分の可能性を信じる。
勉強もスポーツも、こういう武道的、「道」の思考法が、日本人にはあります。
外国人を教えていると、「それはもう習ったから知っている。だから新しいことを教えてくれ」と往々にしてなります。できているかどうかなんて関係なかったりします。
間違えないでほしいのですが、それがいいとか、悪いとかと論じているわけではありません。拠って立っている基盤が違うのです。
もし、武道、競技、スポーツ等、各分野において、精神性なんて関係なければどうでしょうか?
「何がなんでも強ければよい」というのであれば、ひたすら技術を磨く必要があります。
座学も精神性も禅も関係なければ、新しい技術の習得に毎日を費やさなければなりません。
ラスボスたる技などあるわけではないわけですから、常に新しい技術をYouTubeで探す必要があります。
でも、日本の武道はサムライに直結しています。
鈴木大拙先生によれば「皇室は天台宗、貴族は真言宗、一般庶民は浄土宗系、武士は臨済宗。武士が臨在禅なのは、生死と向き合う必要があったから。禅を学ばなければ、命を失うから」です。
素晴らしい術は、奥深い道につながっていなければならなかったのは、命がかかっていたからです。
私たちはその素晴らしい文化を先達から脈々と受け継いでいるのです。
では私の見方を、「空手の事故」のときに記載したのを再録、修正する形で、ここに記録しておきます。
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■ 武道の基盤は武士道でなければならない
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武道は武士道にその基盤がなければならない。
もし、武士道にその基がなければ、武道はただの殺し合いの技術である。
柔道も空手も剣道も合気道も、あるいは派生するすべての武道が生殺与奪の権利を争う技術として誕生している。
武道がスポーツと違う一つは、本来は歴史の上で実践され、実証された「殺人の技術である」という点だ。
■ 「武士道」が技術に魂を与える
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武士道はその技術に魂を与える。
武道の技術を磨きに磨き、その技術を鞘に納めたままで使わずに相手を活かすことを求めるのが武道の最終目標となるのは、そこに「武士道」という魂があるからだ。
無住心剣の流祖針ヶ谷夕雲は、究極の剣は相打ちならぬ、「相抜け」であるとし、無外流新名宗家の先代塩川宗家の師でもあり、昭和の名人植芝盛平は「私の究極の技は、相手と仲良くなることです」と答えられた。
禅を修養し、自分が生きる死ぬことを考えるだけではなく、相手のことを考える。
それがかつてのサムライの求めた成長の道だ。
■ 道を求めるからこその「道場」であり、「教室」ではない
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武道の稽古場所を道場というのは、上記のように道を求めるからだ。
道場は決して「教室」「稽古場所」ではない。
道場が「教室」「稽古場所」「ジム」となったときに魂は失われてしまう。
■ 「私を産んだのは父母である。私を人たらしめたのはわが師である」(新渡戸稲造翁)
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その前提で考えれば、まず指導者の存在価値は技術を伝えるだけではない。
道を示すことだ。
新渡戸稲造翁が160年前に「武士道」でこう言っている。
「私を産んだのは父母である。私を人たらしめたのはわが師である」
師として、道を示し人としての成長を手伝えるか。それが重要だというのだ。
それに挑戦する武道の指導者は師であって、「コーチ」ではない。
ところがその存在価値を失い、相手を踏みつけても勝つことを教えた、自分の力を誇示するようになったときに、武道はただの殺人の技術に堕する。
■ 命を受け止めてくれる相手への尊敬
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試合は、命をぶつけ、受け止めてもらうものだ。
命をぶつけることができるのは、受け止めてもらえるだけの技術がある相手がいるからだ。
それを理解したときに、必死で自分の命を受け止めてくれる相手への尊敬が生まれる。
尊敬がなければ、何をしようが勝つ事への快感を求めようとするだろう。
勝利の瞬間、勝ったことを主張するためにガッツポーズでアピールするだろう。
負けた瞬間、自分は負けてないと過敏に主張したくなるかもしれない。
これでは人では無く獣だ。
快感があるのは事実だから、誰もが心の底にそんな獣が存在していると言えるだろう。
そんな獣の心に打ち勝ち、人を人たらしめるために、師は道を示すのだ。
師が自ら獣になってしまえば、それはもはや師ではない。
相手が幼くても、そこに敬意を表すことができなければ、武道家ではない。
だから武道は、師にも学びを要求するのだ。
師には覚悟が必要だ。
■ 武道の指導者の一番の役割は
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もう亡くなられたが、真樹日佐夫先生にお会いしたことがある。劇画原作者である故 梶原一騎先生の実弟で、極真会館が実戦カラテとしてそうそうたる先生方を輩出されていた時代の、総本部師範代であった方だ。
お会いしたときはすでに極真空手は四分五裂していたが、「そうか、君は福岡の極真か。今はみんな別れたけど、同じ釜の飯を食った兄弟、俺たちは家族みたいなもんだぞ」と握手してくださった。
強面だったし、極真の看板を守るときは喧嘩上等の鬼になるが、本当にやさしい人だった。
その真樹先生が、町の空手道場の経営者から相談を受けられた。「近所に違う空手道場ができた。そこは楽しくやっている。自分のところは厳しくやるし、怪我もするけど、それが空手じゃないか?」
強面の真樹先生なら「その通りだ」と言われるだろうと誰もが思っただろう。
しかし、答えは違った。
「お前、間違っているよ。指導者の一番重要な仕事は、怪我しないように門下生に目を配ることだよ。」
■ 今回の問題
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さて、上記を考えれば、
この事故を招いた指導者は師ではなく、ただのコーチであった。その点では指導者ですらない。マウントをとることで、自分の満足を得たいなら、武道の指導をするべきではなかったのではないかと思う。体験しに来た5歳の子どもに、仮に思った通りのことが伝わらなかったとしても、相手が5歳であり、どう理解しているかは大人が決めつけてはならない、と私は思うし、指導でも気をつけたい。
怒るのは感情だ。叱るのは愛情だ。
仮に自分の子どもだとしたら、将来に役立つよう、理解させようとするだろう。
5歳の子ども相手に、やってはいけないことをしたと判断した世間が問題視しているのだ。
武道の道場は心身を磨く学習と成長の場であることを忘れてはならない。
真樹先生にもし今回のことに聞いたら、「体験で来た5歳の子どもにスパーリングをやらせるなんて言語道断だよ。未経験者にタックルをやらせるのが常態化していたとしたら、今までよく事故を起こさなかったな。」とあきれられるのではないかと思う。3分を10セット。初めての、それも5歳にそれはブラジリアン柔術なら普通だ、と考えるのか。
その道場でなくても、ブラジリアン柔術の道場は、これが普通のことではない、とコメントをするべきなのじゃないだろうか。そうじゃないと、世間は「自浄作用はない」と考えるんじゃないか?これはただの行き過ぎた指導じゃない。世間が認めない以上、傷害事件の認識をもたれてもおかしくない。それも5歳の子どもに一生忘れないだろう恐怖を与えた事件として、だ。
お母さまが自責をご自分で考えるのはいい。誰でも「あのときこうすればよかった」と思うことはある。しかし、この世界を知らなかったお母さまを攻撃するのは、大人として筋違いだ。お母さまに求めることがあるとしたら、落ち着くまでお子様と楽しい時間を積み重ねてください、という願いだ。
そのお子さんが、怖くて外に出られなかったり、大人と話せなくなるような子になることなく、元気に遊ぶ子になれるよう、願うばかりだ。
■ 誰とつきあうかは重要だ
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このブラジリアン柔術の道場がどこであったのかは知らない。
今もってこの道場からの謝罪があったとは聞かない。
まずは、これがその世界全体の信頼を損なうリスクがあると認識しなければならないと思う。
5歳の子の心を傷つけたことに対して反省をされるべきだし、指導方法をさらに研究します、とされる必要があると私は思う。
■ 道からぶれることなく学び、成長しよう
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武道は殺し合いの技術では終わらない。
自分を極限まで磨き、自分の気持に勝つ。
これを新渡戸稲造翁は自分の心に打ち勝つ心として「克己心」と言い、山岡鉄舟翁はサムライがめざす「施無畏」と言った。
その成長があるから感動があるのだ。
私たちが目指す武道は、その道からぶれることなく成長を目指したい。
鵬玉会はこの事件からさらに学び、本来私たちに社会が求める「人としての成長」を導くお手伝いをする。そんな未来に続く、世界が尊敬する武道団体でありたい。


