居合形と組太刀形

わが師 新名玉宗と

居合形と組太刀形


先日、わが師、無外流明思派 新名玉宗宗家からSMSが届いた。

 『抜き即斬の居合が出来ない人達が行う居合の動きは、芸者や殺陣の人達が行う動き、つまり〘演舞〙と同じです。

 そして組太刀形は、打太刀と仕太刀が単なる攻守擬きの動きをする。
つまり二人で息を合わせて動きを追い掛けているだけでは、〘演舞〙です。

 演舞である以上、観ている人達に、その動きは綺麗でなければなりませんし、上手く魅せなければなりません。

こういうのは【文化】です。』

 「抜き即斬」無外流では「居合の本義は抜刀の一瞬にあり」と言う。
 抜刀のその抜き打ちで斬れなければ、少なくとも居合とは言えないぞ。
 その一つの合格点が、基本一の初太刀、つまり抜き打ちの横一文字。
 そしてその先が無外流の形「水月」の初太刀、つまり座技抜き打ちの横一文字。
 その究極が「置き藁」と呼ばれる、置いただけの畳表一畳をその水月の初太刀で斬る試し斬りだ。

 「無外流は一拍子で抜く」と塩川宗家はおっしゃった。
 だから、いったん抜いた刀を少し脇に戻して斬る、なんてことは許されない。
 それのよい悪いを言っても仕方ない。少なくとも塩川・新名伝の無外流はそうなのだから。
 他流のことを云々する人がいるようだが、それは隣の家のカレーの作り方が間違っている、というようなものだ。
 「隣の家にはチョコレートが入っている、邪道だ。」
 チョコが入っているカレーが好きなんだろうから、ほっておけばよい。
 「抜き打ち」と言いながら、いったん戻す流派もあるだろうから、そうしたほうが楽だと思うなら、そんな流派にいけばいいだけのことだ。

 私は塩川・新名伝の無外流が合理的でまやかしがないところが好きだから、よそがどうでも気にならない。そもそも極真で(いや、若いときの私生活でも、とでも言葉を濁しておこう)戦うことを知っているが、その視点で見たときの無外流は、それはもう理にかなっているとしか言いようがない。

 なのに、挑戦することで形の本当の意味を知ろうとしないのは、大変もったいないことだと思う。

 ご宗家のSMSに戻ろう。

 『こういう文化を武道だと勘違いしている人達が多いのが、今の日本人会員のほとんどです。真に武道を求める人達とは、完全に道を異にしています。

 真に武道を求める人達は、本部道場に来て汗を流しています。
 こういう人達が海外会員を除き、日本国内に10人でもいれば、無外流明思派の存在価値はある、と私は考えています。』

 そう言えば、浅草蔵前に全国支部の本部道場を統括する「総本部道場」を開いたその夜の隅田川脇の会場でのパーティで、私はこう聞いた。
 「どうして私を呼んで個人指導になったんでしょう?」
 「武田さんを教えられるのは俺だけだと思ったんだ」
 ありがたいことだ。
 「俺は武田さんを見つけたんだよ」
 あの夜の隅田川は美しかった。

 入門以来、宗家から個人指導を受け続けた。
 約20年。
 本当にすばらしい師と出会ったと思う。