05 無外流 免許皆伝

05 塩川寶祥伝

無外流 免許皆伝

12 睡眠3時間の東京生活

 昭和33年。すでに取得していた七段に加え、摩文仁賢栄先生から空手道師範免状を頂いた。35年には全剣連杖道五段(当時は五段制)、居合道五段をもらっていた。

 昭和36年、下関に空手を立ち上げた時からの同士の勧めで、拓殖大学療科の東洋鍼灸専門学校に合格し、国家試験も合格する。
 「塩川さん、武道じゃ飯が食えんよ。ここは頑張って、鍼灸の資格を取ったらどうだね」と勧められたのだ。
 こうして、東京での生活が始まる。

 むろん、下関の空手道場拳聖館の面倒も見る。関西では、中川士竜師範の居合、中嶋浅吉師範の杖道の指導のお手伝い。
 さらに東京で学生生活。

 1日の睡眠時間は3時間の日々だった。

13 11代宗家中川士竜が

 ここではわかりやすく巷間で言われる宗家の代位にいったん戻しておきたい。
 すなわち、中川士竜宗家は11代、石井悟月宗家は12代というものだ。

 この昭和36年、無外流の一門には大事件が起こる。中川士竜宗家による、次の12代宗家石井悟月師範の破門だ。

 もともと石井悟月師範は、塩川とも親交の深かった無双直伝英信流宗家、河野百練師範の後を継ぐだろうと誰もが思った師範であった。しかし、無双直伝英信流宗家は石井師範には継承されなかった。

 そこで、石井師範は門弟100人を引きつれ、無外流の門を叩いたのだ。喜んだのは中川宗家である。すぐに宗家を譲り、12代としたほどだった。

 塩川は、この石井師範の洗練された居合が好きでよく教わったそうだ。
 「いろいろの居合と接したが、悟月さんの居合が一番だった」

 紙本栄一、壇崎友影、河野百練、もちろん中川士竜宗家などの師範と比較をしてのことだと言う。
 石井宗家は、無外流を洗練された居合に昇華させたように見える。

 ところが、石井悟月師範は門弟を引きつれ、剣道連盟に走る。石井先生が無外流に属していた期間は、3年弱。

 中川宗家は、石井師範を罵倒する手紙を塩川に送りつける。
 それだけでは飽き足らず、『石井悟月に渡したのと同じ免状を渡すから、高野山に来い』と命じたのだ。

 何が何やら訳の分からぬまま、塩川は、高野山で免許を渡された。

免許といっしょに中川宗家から塩川先生がいただいたもの

14 中川先生と塩川先生の間に

 のちに、塩川は無外流正統15代宗家を名乗ることとなる。

 この経緯を新名玉宗宗家に聞いたことがある。

 「中川先生は11代を名乗っていたが、よく調べてみると、前にもう2代あって、中川先生は実は13代だと言うんだ」

 その通りに中川宗家が13代だとすると、15代を名乗る塩川宗家の間に1人いることになる。その1人を

 「石井悟月さんだよ」

と塩川は言っている。

 「石井さんが14代だとする俺に文句があるなら何時でも言ってこい。相手になってやる」

 そこで、この「塩川寶祥伝」では、中川宗家を13代、石井宗家を14代と表記を戻そうと思う。

15 15代 塩川寶祥宗家誕生

 無外流宗家を名乗る系譜がもう一つある。小西御佐一師範である。

 小西先生は、糸東流空手道では塩川と兄弟弟子。居合と杖道では塩川の弟子という関係である。
 高野山で免許を受けた塩川は、中川宗家から宗家を譲ると言われたことから、系譜が二つ生まれることとなった。

 今はいざ知らず、当時のことである。塩川は、石井悟月師範が河野百練師範の後を継げなかった理由を考え、この頃から中川先生を避けるようになった。

 そして、姫路在住の小西先生に、中川宗家の面倒を頼んだ。その後、塩川は中川宗家の許可を得て、全剣連に所属し大活躍をする。

 実はこのころの無外流は今とは違う。流祖の時代からくだって、弱小流派となっており、「無外流ってなに?」という状態になっていたそうだ。
 この時代の居合の肌感は私は知らないが、そんな状態のものを大流派にすることは、普通の人には困難なことだろう。

 塩川が全剣連に所属し大活躍をすることが、無外流を全国区にすることになったのである。しかし、中川宗家との縁はますます薄くなっていく。

 石井師範が変わらず宗家を名乗られる。それに対抗するように、中川宗家は晩年、免許皆伝を多数に渡した。その人数6人。

 しかし、その中に塩川は入っていない。

 小西先生は入っていた。

 皆伝をもらった小西先生は、さっそく下関の塩川のもとに行き、事情を説明して本来中川先生が渡すはずだった皆伝の巻物を塩川に預けた。

 「小西は筋を通す男でな、俺が皆伝を出す時に自分にも一緒にくれと言って預けたんだ」

 塩川が約束通り、自らが発行した皆伝を小西先生に渡したのは平成12年。

 石井悟月師範を宗家に数えるか。
 中川士竜先生を11代と数えるか、13代と数えるか。

 ここがこれ以降の各派の違いとなる。

 さて。これ以降、塩川宗家と敬称をつけたい。

 また、塩川宗家から新名玉宗宗家に続く系譜とは別の、小西宗家に始まる系譜も同時に誕生である。

 これとは別に、甲斐国征泰心先生の系譜をはじめ、諸派誕生し、それぞれに歴史あるのだと思う。しかし、他の系譜を知ることにあまり意味はないように思うので、最大の系譜と以降なり、世界にも普及されていく「塩川・新名伝」に集中したい。