免許継承者

免許継承者 

武田鵬玉は継承、340年の歴史を背負う

2017年新春の免許受領式。新名玉宗宗家から直接の免許受領。

系譜

340年前、流祖辻月丹から始まり、連綿とつながる名前。どの流派も、「その人に誰が授けたか」が重要である。武田鵬玉は、当代・無外流明思派 新名玉宗宗家の名前で免許の授与が行われている。この巻物を見ると、「歴史を背負う」意味合いが強いことを感じざるを得ない。

当代 新名玉宗宗家の名代演武を命じられた武田鵬玉会長

流祖からの系譜

 無外流居合は、流祖辻月丹によっておこされたものだが、すでに初期において自鏡流居合を稽古していたのが無外流一門であった。そのため、無外流三代都治記摩多資英の伝書には「無外流居合」と書かれている。
 辻月丹の時代には老中酒井雅楽頭(うたのかみ)の庇護により、大名が32家も学んだことが、各地に伝わった無外流であるが、自鏡流もほとんど絶えてない。
 現在の無外流は、高橋家六代八助充亮の弟秀蔵が土佐にいた頃、自鏡流居合をとりいれ、無外流居合として伝えたものという説もある。
 340年ほど前の初期の様子を写した映像などは当然ない。あるいは、無外流居合を整理・編纂したと考えるのが正しいのかもしれない。
 高橋八助充亮、秀蔵ともに、自鏡流五代の祖山村司に自鏡流居合を学んでいる。
これより姫路酒井藩においては、剣術は無外流、居合は自鏡流が藩主酒井雅楽頭以下一般に行われるようになった。
 姫路は新選組三番隊斎藤一隊長が御家人であったところ。この縁で無外流だと想像するとおもしろい。

新選組 三番隊 斎藤一隊長

 自鏡流は新田宮流の和田平助の門人多賀自鏡軒虎政に始まる。免許の巻物系譜にもそれは記されている。

昭和以降の継承

 髙橋家の無外流を高橋赳太郎から学んだのが、中川士竜申一。

中川士竜宗家

 無双直伝英信流20代河野錬の高弟であり、同流次期宗家と思われていた石井悟月善蔵が一門を連れて中川士竜に弟子入りした。この一門の中にいたのが塩川寶祥照成(ほうしょうてるしげ)である。
 かつて大名が学ぶ剣であったこの無外流も、流祖からくだるにつれ、地方に伝わる小さな流派になってしまっていた。
 塩川(寶祥)照成は戦前、「海軍飛行予科練習生」通称 予科練から海軍高等飛行学校を卒業、昭和19年、鹿児島県肝属郡串良航空基地(鹿屋基地)で紫電改に搭乗する帝国海軍飛行兵となった。


 ウィキペディアによれば、敵機を10機以上撃墜した世界のパイロットに任命される「エースパイロット」の称号を受けている。塩川は敵機(米軍機)を、18機撃墜したと記録されている。さらに、撃墜されること2度。
 撃墜され、そして生還したのだ。
 現代において武道家が多数いても、レーダーもない戦闘機を駆り、前後左右上下に敵の可能性がある中でのことだ。
 現代において、そんな経験をした武道家は塩川以外にはない。
 「実戦」ということにこだわったのは、塩川宗家にとって重要だった理由はよくわかりそうだ。
 戦後はやくざの賭場荒しをすることで糊口をしのいだというから、何をかいわんやである。

若き日の塩川先生

塩川寶祥の武道歴

 空手の四大流派と呼ばれる「糸東(しとう)流空手」の創始者摩文仁憲和(まぶにけんわ)先生の門に入り、後に宗家となる。
 また、戦後大阪府警の武術指導に来られていた、植芝盛平先生と知り合いかわいがられ、高弟となっている。
 空手の兄弟子からの紹介で、出会ったのが居合だ。
 無双直伝英信流居合の石井悟月師範門下に入り、石井師範が団体100名ごと無外流居合の中川士竜宗家門下に入ったため、塩川は中川宗家から指導を受けることになる。
 13代中川宗家、その中川宗家から宗家継承をされた石井宗家を14代と数え、塩川宗家を15代と数える。
 「石井さんが14代だとする俺に文句があるなら何時でも言ってこい。相手になってやる」
 その直弟子である当代 無外流明思派 新名玉宗宗家に聞いたことがある。
 新名玉宗宗家が塩川に「なぜ無外流だったのか」を尋ねたことがあるそうだ。
「無外流が一番速くて、一番合理的だったからだ。居合は殺し合いなんだぞ」
と言われたそうだ。
 紫電改に乗り、エースパイロットであった塩川宗家(ここからは宗家と称する)の言葉らしい。

 塩川宗家は、全空連を離れたのち、日本空手道会を立ち上げている。その組織図は関係
者を驚かせた。

名誉会長 岸信介(この数年前に内閣総理大臣を退任)
会長 安部晋太郎(すでに衆議院議員であり、この数年後に農林政務次官 安部晋三元総理の
ご尊父)

であった。

塩川寶祥宗家


小さな無外流の普及へ

 昭和30年代の後半、全日本剣道連盟主催の居合道全国大会で、他流の審判たちの元、個人戦では準優勝、団体戦では優勝し、塩川宗家は、大旋風を引き起こしている。
 時代が昭和となって小さな流派となり、「無外流?それって何だ?」という状態であった時期だ。
 孤軍奮闘して無外流の名前を全国に広めた塩川宗家の活躍、武士の禅 臨済宗の老師であり、花園大学という仏教の大学の学長であった大森曹玄老師の著作で無外流は広まりだす。
 当時、試し斬りをする流派は多くなかった。その流派や、団体の長が斬れなければ、その門下には斬ることを許さないからだ。
 鵬玉会において、抜き打ちの試し斬りが可能なのは、塩川先生が試し斬りの上手であったことが大きい。
 「塩川先生は畳表、藁、竹を切る試し斬りは見事だった。」(新名玉宗宗家)

若き新名宗家


新名玉宗宗家の登場

 この前後、合気道を学んでいた1人のまだ20代の武道家が塩川先生に入門する。
 後の宗家 新名豊明(まだ敬称略)である。
 三菱重工株式会社に勤務していたから、当時の超エリートだ。実際に海外を飛び回っていた。
 「下関に赴任していたときからだったかもしれないが、記憶にない。合気道を修めるためには本格的に居合を学ばなければならないと思ったんだ。
 「下関に凄い先生がいる」と聞き、学ぶならこれだと入門を決めた。偉大な先生だった。私は身近にいて学ぶことができたことを幸せに思うよ。ときどき会社を1週間や10日休んだりしてね。
 先生の道場で深夜まで稽古していたことを最近よく思い出すんだ。塩川先生は「おい、ここは俺の道場だから自由に使え」と言ってくれる。」
 「夜10時くらいまで指導を受けたあと、そのまま道場で一人稽古をするだろ?先生は「俺はもう上に上がるからな」と階段をのぼっていく。しばらく稽古をしていると、ビール瓶を片手に降りてきてこう言うんだ。「新名、足が違うぞ」と。見ていないのに、なぜわかるのか?音を上で聞いていて、「違う」と気づいたんだな。
当時はびっくりしたなあ。」
 「膝を3センチ出せ、拳を2センチ落とせ!」といつも具体的だったよ」

塩川宗家、次代へ
 80歳を超えられた塩川宗家は、塩川派糸東流空手道については、御子息、塩川
尚成師範に2代目を譲られた。
 神道夢想流杖術の後継者は、岩目地光之師範に譲られた。
 ほとんど孤軍奮戦して、日本全国にその名を広めた無外流居合兵道については、中川伝は弟弟子である小西御佐一師範が継承されている。塩川伝は、いったん16代を新名玉水(当時)師範に譲られた。平成19年(2004年)には15代塩川先生、16代(当時)新名先生の武号の1文字ずつをとり、
「寶玉会(ほうぎょくかい)」として日本橋地区に常設道場を出している。
 「鵬玉」「鵬玉会」はこの音をいただいていることに、ここまで読めばすぐに思いいたるであろう。

塩川寶祥 新名玉宗 両宗家


塩川・新名伝の無外流は鵬玉会が継承

 「俺は組太刀の大会をしたかった。何が「怖い」だ。これが無ければ武道じゃない
だろう?」(新名宗家)
 その理想は、鵬玉会が夏の自由組太刀の全日本として現実化した。
 「俺は「斬れる居合」だと言ったんだ。形の初太刀で斬れないで、何が居合だ」
 その理想は、鵬玉会が秋の試し斬りの全日本として現実にした。
 「斬れる居合でなくて、何が形だ。そんな形の踊りにもう興味はない。」
 斬れる居合の形を競う大会として、また武道の権威として最高の舞台「京都武徳殿」での冬の全日本として現実化した。
 それらを考えてみれば、塩川宗家の理想を継ぐ新名宗家が、武田鵬玉と鵬玉会を作り上げたのだと思う。
 塩川宗家の名前、新名宗家の名前、それぞれの音で作られた鵬玉会を。

 「武田さんの本当の気持ちは俺にしかわからないよ」
 よくご宗家はおっしゃる。
 これは、新名宗家と私だけが居合で生活の糧を得ていることを指すのだと思っていた。
 しかし、塩川宗家の資料を調べていて気づいた。
 同じことを塩川先生がおっしゃっているのである。
 『わしは武道のプロじゃ』
と塩川宗家はよくおっしゃったそうだ。
 この場合の「プロ」は、先の「それで生活の糧を得ている」というだけではなかった。
 『この道は、儂にとって、命を賭けて貫いていく天職なんだ!』
と言う覚悟の表明だというのだ。
 「なにかあったらそこに命を懸けるほどの覚悟は、サラリーマンしながら居合を楽しん
でいる人にはないよ。そんなもの、求める方が無理ってもんだ」
 新名宗家はおっしゃった。
 中川先生の時代、無外流は誰も知らない流派になってしまっていた。塩川先生は
「ここに無外流あり」と声をあげ、新名先生はそれを国内最大級組織を作ること
で花開かせた。
 さて、鵬玉会は武道の世界に歴史の足跡を残すことができるだろうか。
新名宗家に私はこう言った。
「組織力で戦います」
 鵬玉会は個人の力でなすのではなく、340年かけて作り上げられた組織力で戦う、稀有な居合の組織なのである。

武田鵬玉OSS 山梨県 武田信玄の菩提寺 乾徳山恵林寺にて