免許皆伝と第17代宗家継承
新名玉宗豊明から武田鵬玉へ
武田鵬玉(当時・武田祐次)は2005年に無外流へ入門。翌2006年、新名玉宗豊明宗家のもとへ呼ばれ、直接指導を受け始めました。
当時、武田は極真空手からの武道歴は、すでに約30年になっていました。その武田に対し、新名宗家は、初期には毎週、その後も月々の宗家稽古を通じて、約20年にわたり無外流を直接指導しました。
2017年、新名宗家から武田鵬玉へ「免許」が授与されました。これは、新名宗家から無外流の伝承を正式に受けた重要な証しです。ただし、この時点では免許皆伝および宗家継承ではなく、その後も直接指導は続きました。
そして2026年7月4日、横浜武道館。新名宗家は武田鵬玉へ無外流居合兵道の免許皆伝を授与しました。続いて宗家継承の名乗りが許され、武田鵬玉は塩川宗家から新名宗家へと伝えられた無外流を継承する決意を公にしました。
正式称号は、
塩川・新名伝 無外流居合兵道 第17代宗家 武田鵬玉
(以下塩川・新名伝 無外流 第17代宗家 武田鵬玉)
です。
武田鵬玉が継承したのは、「無外流明思派」という派名や団体ではありません。新名宗家から免許皆伝を授与され、流祖以来の師弟伝承と宗家を「塩川・新名伝 無外流」として継承しました。
「免許」と「免許皆伝」
2017年に授与された「免許」と、2026年に授与された「免許皆伝」は、同じものではありません。
「免許」は、修行と伝承が一定の段階へ到達したことを、師が正式に認めた証しです。
「免許皆伝」は、流儀の技と教えを修め、その伝承を担う者として認められたことを示す、最高位の允許です。
また、免許皆伝を授与された者が、自動的に宗家になるわけではありません。免許皆伝と宗家継承は、本来それぞれ別のものです。
2026年7月4日は、新名宗家から武田鵬玉へ免許皆伝の巻物が直接授与されるとともに、「宗家」を名乗ることが別途許された日でした。
2005年の入門から始まり、2006年以降約20年にわたって続いた新名宗家の直接指導は、免許皆伝の授与と第17代宗家継承によって、一つの到達点を迎えました。
無外流の系譜――誰から、誰へ授けられたのか
古流の継承において重要なのは、単に技を知っていることや流派を名乗っていることではなく、誰に学び、誰から允許を受けたのかという師弟関係です。
武田鵬玉が2026年に受けた免許皆伝は、新名玉宗豊明宗家の名によって、本人から直接授与されました。流祖・辻月丹資茂から約350年。都治家、高橋家、中川士龍申一、石井悟月善蔵、塩川寶祥照成、新名玉宗豊明へと受け継がれてきた無外流の師弟伝承は、その直弟子である武田鵬玉へ託されました。巻物に連なる名前は、武田鵬玉が背負う無外流の歴史そのものです。

無外流の剣術と居合 ――二つの伝承が高橋家で重なる

無外流は、延宝8年(1680年)、流祖・辻月丹資茂によって興された剣術流派です。
辻月丹の一門では、無外流剣術とともに、多賀自鏡軒から始まる自鏡流居合も稽古されていました。無外流第三代・都治記摩多資英の伝書には、すでに「無外流居合」と記されています。
辻月丹から続く無外流剣術は、辻右平太、都治家を経て高橋家へ伝えられました。一方、多賀自鏡軒から続く居合は、佐々木竜谷子、山村荘厳昌周、山村司昌茂を経て、高橋八助充亮へ伝えられました。
高橋家において、辻月丹から続く剣術と、多賀自鏡軒から続く居合の二つの伝承が重なり、後世の無外流居合へつながりました。
その伝承は、高橋赳太郎高運から中川士龍申一へ、さらに石井悟月善蔵、塩川寶祥照成、新名玉宗豊明、武田鵬玉へと受け継がれています。
なお、中川士龍申一は複数の門人へ免許皆伝を允許したため、その後の無外流には複数の系譜が生まれました。本ページで紹介しているのは、その中でも石井悟月善蔵、塩川寶祥照成、新名玉宗豊明、武田鵬玉へと続く「塩川・新名伝 無外流」の系譜です。
流祖・辻月丹から第17代宗家・武田鵬玉までの正式系譜はこちら

斎藤一と無外流 ―― 警視庁に残された記録
平成6年(1994年)、警察博物館で「警察のはじまり・特別展」が開催されました。
この特別展では、「日本警察の父」と呼ばれる初代大警視・川路利良と、その部下として警視庁に勤務した元新選組三番隊組長・斎藤一が取り上げられました。
元警視庁剣道助教・西尾俊勝氏が警視庁に残る記録を調査し、斎藤一の流儀を「無外流」と紹介しました。これが、斎藤一と無外流の関係が広く知られるようになった大きなきっかけです。
武田鵬玉はその後、斎藤一のご遺族である藤田家の方と会食した際、保存していた斎藤一の羽織を特別展のために貸し出したものの、手元には戻っていないと直接聞いています。警察側は、その羽織から斎藤一の推定身長まで割り出していたといいます。
斎藤一が無外流を誰から、どこまで学んだのかを確定する資料は、現在も確認されていません。播州明石藩との縁や、当時の姫路伝無外流との関係から、同じ源流につながる可能性は考えられます。しかし、鵬玉会が斎藤一から受け継ごうとしているものは、流派名や系譜ではありません。幕末を生き抜き、明治の世でも己の剣と信念を貫いた武人の志です。史実と伝承を区別しながら、その志を現代の稽古と実践の中に生かしています。
昭和以降の継承 無外流を整理・編纂した第13代宗家・中川士龍申一

中川士龍申一は、高橋家に伝わった無外流を高橋赳太郎高運から学びました。
その後、『無外全書』『無外真伝兵道考』などを著し、伝承されてきた技術や伝書を整理・編纂して、「無外流居合兵道」として後世へ伝えました。その功績は、現在の無外流を考えるうえで重要なものです。
一方、中川士龍申一は、複数の門人へ免許皆伝を允許しました。そのため、中川以後の無外流には複数の系譜が生まれています。
本ページで紹介している「塩川・新名伝 無外流」は、その中でも、第13代宗家・中川士龍申一から、第14代宗家・石井悟月善蔵、第15代宗家・塩川寶祥照成、明思派宗家・新名玉宗豊明へと受け継がれた系譜です。
この塩川宗家から新名宗家へ受け継がれた系譜を「塩川・新名伝 無外流」と明確にし、その第17代宗家として継承したのが武田鵬玉です。
※ 新名玉宗豊明宗家は、塩川伝の系譜上16番目に位置しますが、正式称号は「無外流明思派宗家」です。
第14代宗家・石井悟月善蔵から第15代宗家・塩川寶祥照成へ
第14代・石井悟月善蔵は、無双直伝英信流第二十代・河野百錬の高弟であり、同流の次代を担う人物と目されていました。
その石井悟月善蔵が、自らの門人を伴って第13代宗家・中川士龍申一へ入門しました。その門人の一人が、後に塩川伝の第15代宗家となる塩川寶祥照成です。
中川士龍申一から石井悟月善蔵へ、そして塩川寶祥照成へと、無外流の技術と伝承が受け継がれました。
実戦を生きた第15代宗家・塩川寶祥照成
塩川寶祥照成に関する資料や門人の証言によれば、塩川宗家は戦時中、海軍飛行予科練習生を経て、海軍の戦闘機搭乗員となりました。
戦地では敵機18機を撃墜し、自らも2度撃墜されながら生還したと伝えられています。
生死を分ける実戦を経験した塩川宗家にとって、武道は観念だけのものではありませんでした。「速さ」「合理性」「実際に使えること」を重視し、生涯にわたって実戦性を追求しました。
その経験と思想は、無外流の形、組太刀、試し斬りに対する厳しい姿勢となり、無外流明思派宗家・新名玉宗豊明へ受け継がれました。

多流に学び、実戦性を磨いた塩川寶祥照成
塩川寶祥照成宗家は、無外流だけでなく、空手、合気道、居合、杖術など、さまざまな武道を学びました。
糸東流空手の創始者・摩文仁賢和に学び、戦後には、大阪府警の武術指導に訪れていた合気道開祖・植芝盛平とも縁を結んだと伝えられています。
その後、空手の兄弟子の紹介によって居合と出会い、無双直伝英信流の石井悟月善蔵へ入門しました。さらに、石井悟月善蔵が門人を伴って第13代宗家・中川士龍申一へ入門したことにより、塩川宗家も中川宗家から無外流の指導を受けました。
塩川宗家は、多くの武道と実戦経験を通して技を比較し、その中から、最も速く、合理的で、実際に使える剣術を追求しました。
塩川宗家が無外流を選んだ理由
新名玉宗豊明宗家が、師である塩川寶祥照成宗家に、なぜ無外流を選んだのかを尋ねたことがあります。
塩川宗家は、こう答えました。
「無外流が一番速くて、一番合理的だったからだ。居合は殺し合いなんだぞ」
この言葉は、戦場から生還し、空手、合気道、居合、杖術など、さまざまな武道を学んだ塩川宗家が、無外流に見いだした本質を表しています。
塩川宗家が追求した速さ、合理性、組太刀、そして実際に斬れる技術は、新名玉宗豊明宗家へ受け継がれ、現在の「塩川・新名伝 無外流」を支える重要な柱となっています。

無外流の名を、再び世に示した塩川寶祥(しおかわほうしょう)照成
昭和30年代後半、塩川寶祥照成宗家は、全日本剣道連盟主催の居合道全国大会へ出場しました。
当時、無外流はすでに広く知られた流派ではなく、大会の審判を含め、「無外流」という名を知る者もほとんどいなかったと伝えられています。
そのような状況の中、塩川宗家は他流派の審判を前に、個人戦で準優勝、団体戦で優勝という結果を残しました。それまで知られていなかった無外流の名と実力を、塩川宗家が再び世に示したのです。
また、禅僧であり、花園大学学長も務めた大森曹玄老師の著作などを通して、無外流の名は次第に広く知られるようになりました。
塩川宗家は、形だけでなく、組太刀と試し斬りを重視しました。畳表、藁、竹を斬る技術にも優れ、その実戦性は門人たちへ強い影響を与えました。
塩川宗家が再び世に示した無外流を受け継ぎ、多くの門人と指導者を育て、全国規模へ発展させたのが、無外流明思派宗家・新名玉宗豊明です。
塩川寶祥照成宗家が灯した火を、新名玉宗豊明宗家が大きく育てました。この二人の働きによって、塩川・新名伝 無外流は現代へ受け継がれています。

現代の中興の祖・新名玉宗(にいなぎょくそう)豊明
武田鵬玉の師であり、塩川・新名伝 無外流の先代にあたる新名玉宗豊明宗家は、昭和23年(1948年)10月2日に生まれました。
国際居合道連盟鵬玉会では、世界を飛び回って無外流を広め、多くの門人と指導者を育て、全国規模の組織へ発展させた新名宗家を「現代の中興の祖」と位置づけています。
20代のころ、合気道を学んでいた新名豊明は、居合を本格的に修める必要を感じ、第15代宗家・塩川寶祥照成の門を叩きました。
当時、新名宗家は三菱重工業株式会社に勤務し、海外を飛び回る企業人でもありました。しかし、仕事のかたわら塩川宗家のもとへ通い、時には会社を一週間、十日と休んで、稽古に打ち込んだといいます。
新名宗家は、師である塩川宗家について、次のように語っています。
「偉大な先生だった。私は身近にいて学ぶことができたことを幸せに思うよ」
塩川宗家の指導は、厳しく、具体的なものでした。夜遅くまで指導を受けたあと、新名宗家が一人で稽古を続けていると、二階へ上がったはずの塩川宗家が、その足音を聞いただけで、
「新名、足が違うぞ」と声をかけたといいます。
また、
「膝を三センチ出せ。拳を二センチ落とせ」と、身体の使い方を細部まで指導しました。
新名宗家は、塩川宗家のすぐそばで長年にわたり稽古を重ね、形、組太刀、試し斬り、伝書だけでなく、武道家としての姿勢と覚悟を受け継ぎました。
そして、塩川宗家が再び世に示した無外流を、多くの人が学べる組織へ育て、指導者を養成し、日本全国、さらに海外へ広げていきました。

第15代宗家・塩川寶祥照成から明思派宗家・新名玉宗豊明へ
武田鵬玉の師であり、塩川・新名伝 無外流の先代にあたる新名玉宗豊明宗家は、昭和23年(1948年)10月2日に生まれました。
国際居合道連盟鵬玉会では、世界を飛び回って無外流を広め、多くの門人と指導者を育て、全国規模の組織へ発展させた新名宗家を「現代の中興の祖」と位置づけています。
20代のころ、合気道を学んでいた新名豊明は、居合を本格的に修める必要を感じ、第15代宗家・塩川寶祥照成の門を叩きました。
当時、新名宗家は三菱重工業株式会社に勤務し、海外を飛び回る企業人でもありました。
新名宗家は、三菱重工業の社員として世界各地で仕事をし、異なる文化や価値観を持つ人々と向き合ってきました。その企業人としての国際経験が、後に無外流を世界へ広める際にも、臆することなく海外へ踏み出していく大きな原動力になったと考えられます。
日本の古流武道を守るだけでなく、世界へ開き、国境を越えて伝えていく。その行動力と国際感覚は、新名宗家が現代の無外流に残した大きな功績の一つです。
修行時代には、仕事のかたわら塩川宗家のもとへ通い、時には会社を一週間、十日と休んで、稽古に打ち込んだといいます。
新名宗家は、師である塩川宗家について、次のように語っています。
「偉大な先生だった。私は身近にいて学ぶことができたことを幸せに思うよ」
塩川宗家の指導は、厳しく、具体的なものでした。夜遅くまで指導を受けたあと、新名宗家が一人で稽古を続けていると、二階へ上がったはずの塩川宗家が、その足音を聞いただけで、
「新名、足が違うぞ」 と声をかけたといいます。
また、「膝を三センチ出せ。拳を二センチ落とせ」と、身体の使い方を細部まで指導しました。
新名宗家は、塩川宗家のすぐそばで長年にわたり稽古を重ね、形、組太刀、試し斬り、伝書だけでなく、武道家としての姿勢と覚悟を受け継ぎました。
そして、塩川宗家が再び世に示した無外流を、多くの人が学べる組織へ育て、指導者を養成し、日本全国、さらに海外へ広げていきました。

宗家継承から2年後、新名宗家は、自らに残された時間と体力を考え、後進の育成に力を注ぐため、定年を待たず勤務先を退職しました。
記事の中で新名宗家は、武道は「型」から「術」へ、そして最後に「道」へ至るものであり、その三つのいずれも欠かすことはできないと語っています。
そして、当時すでに300年以上続いていた無外流を後世へつなぐ人材を育てることが、自らの役目であるとの決意を示しています。
「寶玉会」という名に込められた思い
平成16年(2004年)、新名玉宗豊明宗家は、東京・日本橋地区に常設道場を開設しました。
その会の名は、師である塩川寶祥照成宗家の武号から「寶」の一字を、新名宗家の当時の武号「玉水」から「玉」の一字を取り、「寶玉会(ほうぎょくかい)」と名づけられました。
「寶玉会」という名には、塩川宗家と新名宗家の師弟の縁、そして、師から受け継いだ無外流を次代へ伝えようとする新名宗家の思いが込められています。
その後、継承をめぐる経緯を経て、新名宗家は同じ平成16年(2004年)に「無外流明思派」を名乗り、自らが塩川宗家から受け継いだ技、伝書、思想を後世へ伝える道を歩みました。
新名玉宗豊明宗家は、塩川伝の系譜上16番目に位置する継承者であり、正式称号は「無外流明思派宗家」です。
新名宗家の「寶玉会」と、現在の国際居合道連盟「鵬玉会」は、同じ「ほうぎょくかい」という読みを持ちますが、別の団体です。
しかし、その同じ音には、塩川寶祥照成宗家から新名玉宗豊明宗家へ、そして武田鵬玉へと受け継がれた師弟の縁と、無外流を次代へ伝えようとする思いが息づいています。

新名宗家の理想を現実にした鵬玉会
新名玉宗豊明宗家は、武田鵬玉に、次のように語っていました。
「俺は組太刀の大会をしたかった。何が『怖い』だ。これが無ければ武道じゃないだろう?」
新名宗家にとって、組太刀は単なる約束稽古ではありませんでした。
実際に相手と向き合い、間合い、攻防、判断、そして恐怖を乗り越えることを学ぶ。組太刀がなければ、居合は実際の相手を失い、武道ではなく形の演武だけになってしまいます。その強い危機感が、この言葉には込められています。
新名宗家が実現したいと願いながら果たせなかった組太刀の大会を、武田鵬玉と国際居合道連盟鵬玉会は、「自由組太刀®」の全日本大会として現実にしました。
新名宗家は、試し斬りについても厳しい考えを持っていました。
「俺は『斬れる居合』だと言ったんだ。形の初太刀で斬れないで、何が居合だ」
また、居合形についても、
「斬れる居合でなくて、何が形だ。そんな形の踊りに、もう興味はない」と語っていました。
新名宗家が追求した「斬れる居合」は、夏の「自由組太刀®」、秋の「試し斬り」、冬の「居合形」という、三つの全日本大会として実現しました。
冬の全日本大会は、武道の歴史と権威を象徴する京都武徳殿を舞台に、「斬れる居合」の形を競う大会として開催しています。
夏の自由組太刀、秋の試し斬り、冬の居合形。
この三つの全日本大会は、単なる競技会ではありません。
塩川寶祥照成宗家が追求し、新名玉宗豊明宗家が受け継いだ、形、組太刀、試し斬りを一体として学ぶ無外流を、現代の稽古体系として実現するための取り組みです
武道を天職として生きた三人
第15代宗家・塩川寶祥照成は、自らを「武道のプロ」と称していたといいます。
新名玉宗豊明宗家もまた、武田鵬玉に、
「プロは、俺と武田さんだけだ」と語っていました。
塩川宗家、新名宗家がいう「プロ」とは、単に武道によって生活の糧を得る者ではありません。
いざ何かが起きたとき、自らが前に出て、命を張る者です。
流派と門人を背負い、その責任から逃げない。その覚悟を持つ者こそが、二人のいう「武道のプロ」でした。
新名宗家は、さらに武田鵬玉へ、
「武田さんの本当の気持ちは、俺にしかわからないよ」と語っていました。
塩川寶祥照成宗家、新名玉宗豊明宗家、そして武田鵬玉。三人は、それぞれの時代に武道を天職として生き、何かが起きたときには自らが前に立つ責任を背負ってきました。
技術だけでなく、その覚悟もまた、塩川宗家から新名宗家へ、新名宗家から武田鵬玉へと受け継がれています。
新名玉宗豊明宗家から約20年の直伝
武田鵬玉は、昭和38年(1963年)6月22日に生まれました。
極真空手をはじめとする武道修行を重ね、すでに約30年の武道歴を持っていた2005年、無外流へ入門しました。
2006年、新名玉宗豊明宗家は武田鵬玉に、「俺のところに来い」と、自ら直接指導を始めました。
後に武田鵬玉が、「なぜ私を『俺のところに来い』とおっしゃったんですか?」と尋ねると、新名宗家は、
「武田さんを教えられるのは、俺だけだろ?」
と答えました。
この言葉は、すでに約30年の武道歴を持っていた武田鵬玉を、新名宗家が自ら直接教えるべき門人と考えていたことを示しています。
平成29年(2017年)には、新名宗家から直接「免許」を授与されました。しかし、修行はそこで終わりませんでした。
その後も新名宗家のもとで、無外流の形、内伝奥伝、組太刀、試し斬り、伝書、流祖・辻月丹の思想、そして一般には公にできないものまで、約20年にわたり直接伝授を受けました。
新名宗家から受け継いだものは、技法だけではありません。
何を守り、何を変え、何を次代へ伝えるのか。流派と門人を背負い、何かが起きたときには自らが前に出て命を張る、武道家としての覚悟もまた、長年にわたる直接指導を通して伝えられました。
新名宗家の名代として
新名宗家の直接指導を受ける中で、武田鵬玉は、新名宗家から「ご宗家名代演武」を命じられました。
名代演武とは、単に宗家の代わりに形を演じることではありません。
宗家の名を背負い、その技術、思想、品格を代表して、公の場に立つことです。そこには技量だけでなく、宗家の伝承を担う者としての信頼と責任が求められます。
新名宗家が武田鵬玉へ名代演武を命じたことは、長年の直接指導を通して、その技量と人物を認め、自らが受け継いだ無外流を公の場で託した証しでもあります。
武田鵬玉は、新名宗家の名代として演武を務めることで、師の名と伝承を背負って人前に立つ立場へと歩みを進めました。
この名代演武の経験は、その後の免許皆伝と、「塩川・新名伝 無外流」第17代宗家継承へつながる重要な過程となりました。
免許皆伝と第17代宗家継承
令和8年(2026年)7月4日、横浜武道館において、武田鵬玉は新名玉宗豊明宗家から、無外流居合兵道の免許皆伝を直接授与されました。
同時に、新名宗家から「宗家」を名乗ることが別途許されました。免許皆伝を授与された者が自動的に宗家になるわけではなく、免許皆伝の授与と宗家の称号は、それぞれ別に認められたものです。
継承の翌週、新名宗家は武田鵬玉に、
「お前は宗家を継承したんだから」
と語りました。
これを受け、武田鵬玉は、塩川寶祥照成宗家から新名玉宗豊明宗家へ受け継がれた無外流の宗家を継承したことを、日本国内および海外へ「塩川・新名伝 無外流」として明らかにしていくことを、新名宗家へ伝えました。
これは、2005年の入門から約20年にわたって積み重ねられた、師弟の稽古と信頼の到達点です。
流祖・辻月丹資茂から始まり、高橋家、第13代宗家・中川士龍申一、第14代・石井悟月善蔵、第15代宗家・塩川寶祥照成、無外流明思派宗家・新名玉宗豊明へと受け継がれた伝承は、塩川・新名伝 無外流第17代宗家・武田鵬玉へ託されました。
「組織力で戦う」
第13代宗家・中川士龍申一の時代、無外流は、広く知られた流派ではなくなっていました。
第15代宗家・塩川寶祥照成は、「ここに無外流あり」と、その名と実力を再び世に示しました。
無外流明思派宗家・新名玉宗豊明は、塩川宗家が灯した火を絶やすことなく、多くの門人と指導者を育て、無外流を日本全国、さらに海外へ広げました。
そして武田鵬玉は、新名宗家に、
「組織力で戦います」と伝えました。
一人の天才や名人だけでは、流派を後世へ残すことはできません。
数は力です。多くの門人が集まり、技術と思想を正しく学ぶ指導者を育て、互いに切磋琢磨できる環境をつくることで、流派は次の世代へ受け継がれていきます。
武田鵬玉が率いる国際居合道連盟鵬玉会は、全国各地に支部と道場を展開する、国内最大規模の無外流居合の単一・全国組織へ成長しました。
塩川宗家が追求し、新名宗家が世界へ広げた無外流の技術と精神を、組織の力によって未来へ伝えていく。それが、武田鵬玉が新名宗家へ誓った「組織力で戦う」という言葉の意味です。
塩川寶祥照成宗家から新名玉宗豊明宗家へ。新名玉宗豊明宗家から武田鵬玉へ。
人から人へ手渡された約350年の伝承を、さらに次の世代へつないでいくこと。
それが、塩川・新名伝 無外流第17代宗家・武田鵬玉と、国際居合道連盟鵬玉会の使命です。

※ 宗家称号について
武田鵬玉が継承したのは「塩川・新名伝 無外流」であり、「無外流明思派」という派名および団体を継承したものではありません。
新名玉宗豊明の正式な称号は「無外流明思派宗家」です。武田鵬玉は新名宗家から免許皆伝を授与され、塩川寶祥照成から新名玉宗豊明へ受け継がれた無外流の系譜を継承しました。
武田鵬玉の正式な称号は「塩川・新名伝 無外流第17代宗家」です。
したがって、「無外流明思派第17代宗家・武田鵬玉」という表記は正しくありません。
FAQ
Q.武田鵬玉は、無外流明思派の第17代宗家ですか?
A.いいえ。 武田鵬玉は明思派そのものを継承していません。新名玉宗豊明宗家から免許皆伝を授与され、師弟伝承の系譜を「塩川・新名伝 無外流」として継承した第17代宗家です。
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