夢録04 新選組近藤勇局長生家宮川家第十代当主 宮川豊治智正さん

夢録04 

新選組近藤勇局長生家 宮川家第十代当主 
宮川豊治智正さん

第4回の夢録は、新選組の近藤勇局長の生家、宮川家第十代当主 宮川豊治さん
無外流の使い手として有名な新選組三番隊組長斉藤一。
その新選組の局長であった近藤勇さんのご遺族として、NHK大河ドラマ「新選組!」にも紹介された、宮川豊治さんにインタビューしました。

宮川さんは近藤勇さんの残した手紙や証言も研究されているお方。
秘蔵の話を元に、武士道の核心に迫りたいと思います。
(インタビュー 武田鵬玉)

宮川豊治さん
宮川家第十代当主 新選組局長近藤勇から数えるなら五代目。お父様は「智正;ともまさ(諱であろうか)」と呼んだとのこと。
NHK大河ドラマ「新選組!」にも出演され、板橋の刑場での近藤勇の「残念、無念」という思いを語られた。
88歳のご高齢に関わらず、矍鑠とされていたのは流石でした。

1) 宮川勇五郎さん 近藤勇を知るおじさんと

武田鵬玉(以下、武田) 新選組の近藤勇局長のご生家である宮川家ですから、現存するまぎれもないご遺族なわけですよね。近藤勇局長のご遺族であることを否が応でも意識せざるを得ない環境だったと思いますが、意識されたあたりの話をお聞かせください。

* 宮川家・・・新撰組局長近藤勇の生家。近藤勇は宮川勝五郎といった。天然理心流宗家の近藤家に養子に入り、近藤家を継ぐ形で、近藤勇を名乗った

宮川家第十代当主宮川豊治智正さん(以下宮川さん) 史跡を調べたり、残った資料を調べ出したのは随分後でした。でも新選組や近藤勇のことを考えるときに私には恵まれたことがあります。

武田 それは何ですか?

宮川さん 宮川勇五郎のことです。

武田 近藤勇局長の甥御さんで、いいなづけだった勇局長の忘れ形見のたまさんと結婚し、近藤家と天然理心流の五代目を継がれた方ですね?

宮川さん そうです。いいなづけだった、勇の娘のたまちゃんと結婚し、近藤姓になりました。私の家は勇五郎の実家ですから、勇五郎は毎日のように来ていました。勇五郎は生きている近藤勇をよく知っている人です。勇五郎は板橋で勇が処刑されるところもその目で見ています。 そんな風に、直接近藤勇と話をした人と話した人間で今生きているのは私くらいじゃないでしょうか。

武田 本で学んだ情報ではなく、生きた話だということですよね。近藤勇さんがいきなり現実的に感じられるようで、歴史の身近さに震えるような感じを受けました。今日はよろしくお願いいたします。

2) インタビューに何度も来た子母澤寛先生

宮川さん 勇五郎が亡くなったのは昭和8年です。私が8つのときでした。83歳くらいでしょうか。その勇五郎が板橋で近藤勇とお会いしたのが17歳の頃。勇の子どものたまちゃんと結婚したのが25歳。

武田 どのような方だったんでしょう。

宮川さん 厳しい人でした。いつも道場に通う門人をじっと睨んでいました。新選組の生き残り、関係者にインタビューして回り、新選組三部作を書いた子母澤寛さんをご存知ですか?

*新選組三部作・・・「新選組始末記」「新選組遺聞」「新選組物語」のこと。この「関係者にインタビューして証言を引きだし、小説化した」という設定を借りたのが、浅田次郎先生の「壬生義士伝」。


武田 はい。三部作も読みました。

宮川さん 昭和3、4、5年と、勇五郎のところには、あの子母澤氏が足繁く通ってきていました。「また梅谷(子母澤氏の本名)が来たよ」と言っていました。チョコレートなんかを持ってくるものですから、「変な甘いものを持ってきて、あんなもの食えねえよ」と言っていました(笑)。勇五郎の話については随分子母澤さんは聞いています。沖田総司の京都時代に彼女がいた話や、千駄ヶ谷の植木屋の離れで亡くなった話とかもね。

武田 随分歴史が現実的に感じられるエピソードですね。

宮川さん 慶応4年4月25日、板橋の刑場で勇が処刑された話を子母澤氏が書いています。あれは実は勇五郎から聞いた話です。勇五郎は勇の墓がある龍源寺によく参りに言っていました。その龍源寺の住職に4月25日の話をするときには、いつも涙をこぼしていたそうです。子母澤氏の文章の淡々とした筆致からはわからないところですね。

3)近藤勇処刑。そのとき宮川勇五郎さんは

貴重な近藤勇五郎氏のショット(提供 宮川豊治さん )


武田 近藤勇さんが板橋で亡くなられたときの様子については何とおっしゃってたんでしょうか。

宮川さん それについては、龍源寺の住職が詳しく聞いていますので、その内容をご紹介しましょう。勇五郎が17歳の頃の話ですから、70年くらい前の話をしゃべっているわけです。ですから記憶違いが出て来る。勇五郎が中野の成願寺からたまたま出かけたときに「板橋で今日は新選組の誰それの処刑があるらしいよ」と耳にして、慌てて板橋まで行った、と子母澤さんは書いている。だけど、龍源寺の住職に話したのは、「上石原の家から江戸に用事で向かう人見街道の途中、牛込の当たりで用事をしていた。そこで耳に挟んだ、という事情です。

武田 子母沢寛先生の記述と違うわけですね。

宮川さん そうです。人見街道と甲州街道の二つは江戸に向かう道です。家康が幕府を作るまでは甲州街道はありませんでした。府中までは甲州街道、府中から東南へは人見街道が唯一の江戸へ行く道です。五日市街道、青梅街道に必ずぶつかる。今の新宿三丁目の大通りに出る。勇が江戸に出るのはいつも人見街道。勇五郎もそうだったんでしょう。そうすると正しいのは勇五郎の言葉だということになります。
勇の頃は、勇にとって天然理心流の先輩の原田さんが調布にいたので遠慮してそちらを歩かなかったそうです。勇にはそういう配慮をするところがあったんですね。また沖田さんが具合が悪くなって調布までかごで帰ってきたという記述は、誰でも書くんです。でもそこからどうやって江戸に帰ったかは書かない。普通なら甲州街道を江戸に向かった、と書くんでしょう。調布に来てから上石原、そして我が家に来て、人見街道を通って江戸に帰ったんじゃないかと思います。そのくらい沖田さんも宮川家と近かったんです。そういった事情がほぼ間違いないだろうという証拠があります。

武田 どんなお話ですか?

4) 明治になって来た新選組関係者

宮川さん 勇五郎のところに明治になってから来た新選組関係の方は誰だと思いますか?

武田 ひょっとして沖田さん関係の方ですか?とすると・・・

宮川さん そうです。沖田さんのお姉さん、おみつさん。

武田 大河ドラマ「新選組!」では沢口靖子さんが本当にかわいらしく沖田みつさんを演じていらっしゃいましたね。そうですか、そんな日常に近いエピソードはどこにも出ていません。非常に貴重なお話を聞いていると思います。

宮川さん 実はおみつさんは勇五郎さんのところにはちょこちょこ顔を出しているんです。場所も遠かったのもありますが、土方さんのご遺族とお会いしたのは昭和50年が初めてです。そのくらい土方家、宮川家は縁遠くなりましたが、沖田みつさんの方は足繁く来ていただきました。元々近かったんでしょうね。まあもっとも、その昭和50年からは遺族は皆仲良くなって飲み仲間になりましたがね(笑)。

武田 勇五郎さんから生の話として聞かれたということ自体が凄いですね。

5) 語られない近藤勇のイデオロギー

宮川さん 近藤勇を語るときのポイントは勇のイデオロギーだと思うんです。

武田 というと?

宮川さん 3年ほど前、茨城県の芹沢鴨さんの命日に呼ばれて行きました。そこで話をしてくれ、と言われました。そのとき「芹沢先生が」と言ったところ皆驚いた。

武田 常識としては互いに仇敵、粛清した関係と思うでしょうからね。「先生」と呼ぶのは・・・

宮川さん ええ。でも「先生」と言うことには理由があるんです。井上源三郎のお兄さんの井上松五郎さんの日記の記述なんです。

武田 天然理心流の生え抜き、六番隊組長の井上源三郎さんのお兄さんですか?

宮川さん はい。文久三年、京に勇たちが行ったのと同じころに彼も京に行っているんです。その日記の中に、勇、土方さん、沖田さん達が集まって昔話やくにの話をした記述があります。そこで『近藤が「天狗になっちゃったよ」と言った』というようなことが書いてあるんです。井上源三郎さんのご子孫に聞いたら、これは「鼻が高くなった、ということじゃないんです。水戸の天狗党になった、芹沢鴨のイデオロギーに共鳴した、と言っているんです」と教えていただきました。なるほど、そう読めば納得できることがたくさんあります。
勇は剣で身を立てるということだけではなく文久三年から慶応4年の一月まで公のために戦ってきたんじゃないかと思うんです。
それを現したのが勇の短歌です。

 「事あらばわれも都の村人と なりてやすめん皇御心(すめらみこころ)」

上洛してすぐに作っている短歌です。勇がそのために戦った公というのは、勤王だった、ということなのでしょう。
同じく勤皇の志を歌っているのは芹沢先生です。一緒に京に残って新選組を作るに至った一番の理由は、芹沢先生のイデオロギーに共鳴したということなんじゃないでしょうか。京都につくまでに尊皇攘夷について話し合ったでしょうし、仲良くなったんでしょう。そう考えれば自然に思えます。
普通、勇のイデオロギーについては語られませんし、勇自身がはっきりとした言葉としては残していません。いつかもっと研究が進めばいいと思います。

陸援隊田中光顕氏と近藤勇五郎氏、宮川豊治氏の肖像 (提供 宮川豊治さん )

6)近藤勇、辞世の句

武田 そう言えば、勇さんの辞世の句にも「君恩を思えば」という一節がありますが、宮川さんのお話を伺えば、この君恩は将軍を指しているわけではないかもしれませんね。私は会津公松平容保かなあ、と思っていました。

宮川さん 孤軍たすけ絶えて俘囚となる。
顧みて君恩を思えば涙さらに流る。
一片の丹衷よく節に殉ず。
雎陽千古これ吾がともがしら。
他になびき今日また何をか言わん。
義を取り生を捨つるは吾が尊ぶ所。
快く受けん電光三尺の剣。
只まさに一死をもって君恩に報いん

勇の辞世の句のことですね。

武田 そうです。

宮川さん この場合の君とは大樹公、つまり将軍ではないのではないかと私は思います。慶応4年1月に負けて江戸に戻り、甲陽鎮撫隊で行った当たりの行動も、そう考えると理解ができるのではないかと思うんです。甲陽鎮撫隊として戦いに行ったと思ったらすぐに帰ってくる。流山に行ったときも、着いた途端に出頭している。朝敵になることを恐れていたと考えれば、非常に納得できる行動と考えられるでしょう。

武田 なるほど。誠の旗に象徴されるような、誠心誠意込めてささげた相手は帝だったのではないか、ということですね。

7) 誠にこめられたもの

(上記 敬称略)

宮川さん 昭和になって、土佐出身で明治政府の役人だった方が私の家に来られました。田中光顕さんとおっしゃいます。

武田 中岡慎太郎さんの陸援隊の方ですね?

宮川さん そうです。そして、勇の残した手紙を読んでこうおっしゃいました。「我々と同じ考えだったんですね」私には非常に印象的な言葉でした。
文久3年、京に行くあたりに書いた手紙が残っています。そこに、「忠君愛国尊皇攘夷」と書いているんです。芹沢先生とお会いするのはその後ですから、影響を受けて書いたのではありません。元から終始一貫そういう考えだったのでしょう。

武田 宮川さんの言葉を通して見える近藤勇は私たちがイメージしていた姿とは違う側面を持っているようです。

宮川さん そうですね。従来言われていたこととはちょっと違う勇が、残されたものを見ると見えてくるように思います。そのひたすら君恩に報いよう、私心ではなく、公の存在であろうとする気持ちが誠であったのでしょう。その誠を尽くすというのが、勇の思う武士道だったんじゃないでしょうか。

8)志を継承するとは

武田 ひたすら一所懸命になる。誠心誠意を込める。それが誠であったのでしょうか。その精神の美しさがあってこそ、剣の美しさにつながるように思います。

宮川さん 今の時代は忠君愛国ではないのかもしれませんが。

武田 そうですね。でも、たとえそうであっても、何かのためにひたすら誠心誠意を込めて努力する、それが誠だとすれば、誠をかかげて努力するというのは普遍的なことだと思います。私たち鵬玉会も誠心誠意を込め努力する、そんな武士道の道を求めたいと思います。

宮川さん そうですね。それがあの時代を必死に生き抜いた方たちの志を受け継ぐことでもあるんじゃないでしょうかね。

武田 私たちは継承した武道とその心を世に醸成し、次代の日本を背負う青少年にも伝えていきたいと思います。今日はありがとうございました。

▲新撰組局長・近藤勇の肖像 (‘国立国会図書館蔵 )

鵬玉独白
古人の跡を求めず、古人の求めたるところを求めよ

今月の鵬玉の夢録は、新選組の近藤勇局長のご遺族、宮川豊治さん。NHK大河ドラマ「新選組!」の中でも近藤勇が板橋で処刑されたときのことを語っていらっしゃいました。
武士道を考える上では、平家物語に見る仏教的な見方もあれば、葉隠に代表される個人の生き方に関する見方、赤穂浪士に昇華されたものもあると思います。
その中でも、幕末に「武士とは何か」を突き詰めた新選組はとりわけ触媒として重要な位置を占めているように思います。特に新選組においては三番隊組長の斎藤一が無外流と言われます。居合の使い手であったのでしょう、武田観柳斎、谷三十郎など、主要な暗殺に関わったと言われるのは、居合が斬るともなく斬る技である所以です。
私たち鵬玉会は、無外流居合を通じて新選組とも近くなり、新選組が追いかけた武士道を考えてみる機会をもってみることができました。
私たちの姿勢は、松尾芭蕉が

「古人の跡を求めず、古人の求めたるところを求めよ」

と「許六離別詞」に言うところと同じです。
志を受け継ぐとは、居合という武道の向こうの武士道を自分のものにすることなのかもしれません。
まだ出会っていないあなたとも、一緒に居合の向こうを見る機会を持てることを祈って。