夢録01
作家 北方謙三先生
「杖下に死す」「独り群せず」で「柳生新陰流を描き、
「黒龍の棺」で新選組と天然理心流を描かれた作家北方謙三先生。
先生の試斬に、小説とダブる男の生き方を見ました。
「武田君、急で申し訳ないが、別荘まで来ていただけますか?」
「武田君、急で申し訳ないが別荘まで来ていただけますか?」と言われ、家族で北方謙三先生の別荘まで行きました。
先生は私に居合を教えてほしい、とのこと。
以前基本的な刀の扱い方はお教えしていました。
「そのうち、居合を教えてくれ」と言われていたので、
「じき連絡があるだろう、ついでに(仕事の)インタビューをしよう」と都合のいいことを思っていました。
ところが、あまりの急さに準備が間に合わず、「インタビューは今回いいじゃないか」という先生の言葉もあって次回に回しました。
北方先生の試し斬り。「居合はうまい下手では語れない」
さて、今回先生には刀の振り方、居合型の基本中の基本をやりました。
以前、刀を扱い始められたときに同じことをお教えした程度だったので、まだまだ修正が必要でした。
正直に言えば、まだ形にはなっていませんでした。しかし試し斬りを見たときに、そんなことは問題じゃないのに気づきました。
一足一刀の間合い そこに入った瞬間に妖気が漂った
北方先生は刀を鞘に納めたまま、巻き藁と一足一刀の間合いまで近づかれました。
これ以上不用意に近づけば、相手に斬られるというその距離で、ふいに妖気が漂ったように見えました
そこからは一瞬です。
鯉口を切り、鞘をすうっと引いたかと思うと、潮合に達したのがわかりました。
拝み取りにとった柄を抜刀した刹那、上段に振りかぶり、ためらわず巻き藁に振り下ろされました。
刃筋違わず巻き藁が滑り落ちていきました。
北方先生には、ご指導した通り、切っ先を動かさず、あたかもそこに敵がいるがごとくにその動きにじっと備えていらっしゃいました。
すうっと後ろにひいたかと思うと静かに血振りをし、納刀をなさいました。
残心 その瞬間に居合とは生き方を写すのだと思った
決して理想的な形であるわけではありません。
しかし、そこには有無を言わせないものがありました。
それは巻き藁を斬る試斬ではありませんでした。私の組織の初段、弐段でも、おそらく袈裟で構えた上でためらい、
「いけるかな、どうかな」と考えて斬ってみる感じでしょう。
でも先生は抜刀した刹那、ためらわれませんでした。
私はそこに敵がいるのがわかりました。
そして別荘の前の海に落ちる夕陽をあびたその動きは、あたかも先生の描く剣客の姿のようで、その心、生き方がダブりました。
「杖下に死す」「独り群せず」の主人公光武利之とは実は北方先生だったんだ、と理解した、と私は思いました。
「独り群せず」の最後のシーン、剣を捨てたはずの主人公が天然理心流、新選組と相対する鮮やかなシーンをそこに見たのです。
俺は一瞬の集中力、判断力を磨いているんだよ。自分を試しているんだ
先生にその後その話をぶつけて聞いてみました。
北方先生 武田君、俺はもう時間がない。どんなにがんばっても無外流を習得できない。しかし、正しい刀の使い方を知りたい。試斬をするときに、敵の前に立ち、ためらうことなく一瞬のときをとらえられるか。それは集中力なんだ。
普段小説を書くときに集中力は練っているつもりだ。何を書くべきか。何を捨てるのか。その一瞬の判断力はどんな仕事にもあるのかもしれない。その判断力、集中力を刀で斬る行為で磨こうと思うんだ。
武田 しかし、先生はためらわれません。一瞬の潮合をとらえていらっしゃるのがよくわかる。
北方先生 武田君、うまくいけば斬れるだろう。でもね、もし、失敗しても斬られるだけなんだ。死ぬだけなんだよ。そしてそれはどんな仕事でも同じなんだよ。」
居合を教えに行きながら、男の生き方を教えられた
私は全くブレがない先生にうたれました。
この姿勢、生き方が先生の居合なんだと思いました。
それと同時に居合というのは技術なのではなく、生き方を写す鏡なんだと理解しました。
私は居合を教えに行きながら、男の生き方を教えられたのを理解しました。
だから武田君になんだよ
先生とは食事をし、朝の足音がするまでお話しました。
そのときふと思い出したのは、「杖下に死す」の一節でした。
『友だちとめしを食う。そんな余裕もない人生は、つまらんではないか』
私はそんな北方先生の食事の相手にしていただけたことを誇りに思います。
また、最高の誇りは最後のセリフでした。
「俺が教えてほしかったのは、だから武田君になんだよ」
「うまくいかなかったとしたら、斬られるだけなんだ」そう念じて私も日々がんばろうと思いました