わが師 新名玉宗と
ご宗家名代演武
■ ご宗家の名代演武を今年度の国際大会でするように指示されたのは2024年のことだった。
「俺が武田さんを指名するんだ、だれも文句は言えないから心配するな」
というのも、武道団体において「名代」というのは「すべてにおいて俺の代わり」という意味で、非常に重いものがあるからだ。
小さな組織の中にいるとわからないが、人生の50年をほぼ武道とともにあった私は知っている。
極真空手において、故大山倍達総裁は、誰をどこに派遣するときも「名代」という言い方をしたことはない。
ところが、体調が悪くなり、亡くなる前のネパールで行われた大会に、現極真会館の松井章圭館長(当時本部直轄浅草道場の責任者)を指名し「私の名代」と公にした。
この瞬間、極真全体に大きな波紋が広がった。 このとき、極真関係者は、「二代目は松井だ」というような内容が散見されるようになったはずだ。 極真の機関誌「パワー空手」には、その空気感がはっきりと漂っていた。(私は昭和51年の創刊のとき、通信教育生だったので創刊号から楽しみに読んでいた)
「名代」というのはそのくらい重い。
■ ただし。 そこまでの重さは今回の指名にはないと私は思っている。
ご宗家曰く「無外流明思派は、俺のあとは雲散霧消する」と明言されているからだ。 仮に烏合の衆となることがあっても、自分の率いる組織は鉄壁の堅さで成長を続けられるようにしなければならない。
無外流明思派とは、塩川宗家・新名宗家の理想である「斬れる居合」を求めたものだ。昭和58年当時において、それは画期的だった。なぜなら、居合は「形」である、という一般常識だったからだ。「形そのもので斬る」試し斬りをするなど、居合に関係するものからすれば、想像の範囲外だったのは間違いない。
だから新名宗家が提唱し、国内外最大の一門となった明思派は、他の「形しかしない」居合、あるいは試し斬りと言っても「いわゆる抜刀の試し斬りをする」無外流とは、完全に一線を画していた。
現代の各流派・全剣連の居合の考え方を作る背景には、塩川宗家の影響があるに関わらず(塩川寶祥伝を参照>>>)、新名宗家を破門になった無外流諸派も、安直な居合に傾いている。これは新名宗家の後を見込んで、全剣連を踏襲するような居合に行くということなのだろう。
新名宗家から距離をとれば、実戦居合の色合いはお題目になってしまう。
すべては、強力なリーダーシップあっての無外流明思派だったのだ。
■ 財団法人無外流については、一度私はご宗家からの依頼で改革をしようとしたことがある。新名宗家の指名を受け、プロジェクトのチームメンバーを選んだ。各会の会長と比べれば、当時私は弟弟子としては末端だったので、顔として財団の代表理事の久保田先生にチームに入っていただいた。
一年かけて財団の改革と立ち向かい、新名宗家との約束を達成し、卒業させてもらった。
武道団体というのは、武道としての理想と、運営することでのシステム化と成長を果たすという両輪は、なかなかにどちらも満たすことは難しい。
ましてや「なにもしなくてもこのままでいい」と思う人たちが多ければ、新しい形にはならない。それを私は財団の改革プロジェクトで嫌と言うほど感じた。
数字的に新名宗家との約束を果たした後、このプロジェクトを卒業、できなかった理想の形については「理想は鵬玉会で追求します」と新名宗家にそのとき約束した。
私は、新名宗家の理想の「無外流明思派」と、組織としての「財団法人無外流」は別物だと思った。
武道団体の理想として鵬玉会を追求しよう。
その卒業のときに覚悟は決まったように思う。
鵬玉会は保守本流となる。そのために足らないのは他を圧倒する組織の大きさだった。
末端の弟弟子だったが、鵬玉会が今や最大の組織となり、かつ法人となったのは周知のことである。
■ さて。財団法人無外流が主管団体を務める「国際大会」に戻ろう。これは無外流他派もともに開く無外流の大会だ。他派の宗家が模範演武をされるのと一緒に、私が新名玉宗宗家の名代として模範演武を行う。 失敗はできない。
だから禅を学び、からだづくりからやりなおした。
山梨県 甲府の臨済宗 妙心寺派 恵林寺に学びつつ、禅に触れた。
この演武を私に課題にすることで、私の成長をさらに促したのは新名宗家だ。
なんとすばらしい師なのだろう。
なんと凄い流派なのだろう。
なお、この国際大会の日は6/21。私の誕生日の前日だ。
これもきっと何かのメッセージなのだろうと思う。
■ 「俺はここまではわかった。あとは武田さんの仕事だ。考えてくれ、まかせた」とは、2025年に新名宗家から私に与えられた課題の言葉だ。
こんなときに頭に思い浮かぶのは、映画「ゴッドファーザー」で、マイケルに父ドン・ヴィトーが今後のことをあれこれ教えるシーンだ。
歴史を背負うというのは、覚悟がいるものだと、つくづく思う。