夢録05 天然理心流 宮川清藏勇武宗家(前編)

夢録05 

天然理心流 宮川清藏勇武宗家(前編)

第5回の夢録は、幕末の京で一世を風靡した天然理心流九代目宗家
(新選組の近藤勇局長は四代目宗家)
の宮川清藏勇武先生のインタビューをお届けします。

かつて作家浅田次郎先生も審査員をし、NHK大河ドラマ「新選組!」のキャストもゲスト出演した、ひの新選組まつり。

その2009年の回のこと。
この夢録でインタビュアーをしている私、武田鵬玉は近藤勇役を拝命いたしました。
全国から集まったファン300人を率いて歩いたときには、近藤勇の興奮というものを感じたように思いました。

以来演武でもご一緒し、天然理心流宗家の宮川清藏勇武先生とはありがたいご縁ができました。
その宮川先生に今月はインタビュー。

近藤勇、土方歳三、沖田総司、井上源三郎の天然理心流と、斉藤一の無外流は新選組以来ご縁が深い流派。
そういう意味では、この夢録でご紹介するのに、最もふさわしい方のお一人でいらっしゃるのではないかと思います。

内容が濃いため、今月と来月の二回に分け、前編後編でお届けします。(インタビュー 武田鵬玉)

宮川清藏勇武先生
天然理心流九代目宗家にして、新選組局長近藤勇の生家宮川家の方として見れば、まぎれもないご遺族。夢録四にご紹介した宮川豊治智正さんはお兄様にあたられます。
天然理心流勇武館館長でいらっしゃいます。
NHK大河ドラマ「新選組!」にも出演され、近藤勇、土方歳三、沖田総司らが修めた天然理心流について解説していらっしゃいました。

1)  斉藤一組長の無外流WEBに、近藤勇局長の天然理心流ご宗家をお迎えして

武田鵬玉(以下武田) 「ひの新選組まつり」等、イベントでの演武で随分お世話になりました。

宮川勇武清藏先生(以下宮川先生) こちらこそ。

武田 そもそも天然理心流は新選組の母体となった、近藤勇局長をはじめとした面々の流派です。その新選組でも三番隊組長斎藤一氏は無外流の大先輩。ということで、天然理心流と無外流は深い関係があると思います。

宮川先生 はい。

武田 そういう意味では、無外流居合 鵬玉会のWEBの「夢録」に、近藤勇局長のご生家子孫、言わばご遺族であり、天然理心流九代目のご宗家でいらっしゃる宮川勇武先生をお迎えすることは自然な流れであろうと思いますし、嬉しく思います。
NHK大河ドラマ「新選組!」では、天然理心流をご紹介するために登場していらっしゃったのが印象的でした。今日はよろしくお願いします。

宮川先生 よろしくお願いします。

2)新選組が見た風景を通して武士道と武道を考える

武田 実は私は2009年の「ひの新選組まつり」で、局長近藤勇役をいただきました。

宮川先生 え、そうなんですか?これはありがとうございます。

武田 私は出身が九州福岡なものですから、新選組には縁が遠かったんです。もちろん「燃えよ剣」などは読みましたが、周りには鹿児島県人や山口県人の友人知人が当たり前ですが多い。ところが東京に来て、東から西を見てみると、違う風景が見えるのに気づきました。おそらくそれが何なのかを考えることで武士道に近づけるのではないか、その入口の武道を考えることができるのではないかと思います。

宮川先生 武道を指導する側にも、武道の心を日常に生きるように教えることができる指導者というのは、今はそういないのかもしれませんね。

3)流派を超えて―武士道とは何か?

武田 武道の心というところから行くなら、武士道というのを一言で言うなら何でしょうか。

宮川先生 流派を超えてお話するなら、武士道というのは「義」なんですね。

武田 「義」ですね。

宮川先生 これが武士道の根幹だと思うんです。今では「義」というと「義理がない」「義理堅い」というものになってしまっています。

武田 当時の武士における「義」というのは違いますよね。

宮川先生 はい。当時の「義」は「忠義」の「義」です。それは「誠」の上にあるべき、立つ字です。「誠」というのはその字の成り立ちをみればわかりますが、「言が成る」つまり、言った言葉に責任を持つ、という意味です。そこに責任が伴うから「義」が出てくる。だから忠義なんですね。

武田 新渡戸稲造の「武士道」でも最初に語られる武士道の根幹は「義」だとしていますね。

4)天然理心流初代宗家 近藤内蔵助の教え

宮川先生 天然理心流初代宗家の近藤内蔵助が弟子に諭した言葉があります。天然理心流は武術を習得することはさることながら、ひとつの誠を修めなさい、というような言葉を言いました。内蔵助の言葉として言えば、「一誠を以って天地の公道を極めよ」。

武田 一誠を以って天地の公道を極めよ、深い言葉ですね。誠をもって、この世の公道を極めなさい、ですね?「公道」とは何でしょうか?

宮川先生 公道は七つの道だと言っています。その七つの道とは「忠」「孝」「仁」、仁とは思いやる気持ちですね。そして「智」「信」これは言いかえれば誠です。「勇」「鋼」。その七つの道を習得しないものには、断じて免許を与えない、と言っています。

武田 公道を極めなければ認めないよ、ということですね。

5) 実直、純粋に「天地の公道」を極めようとした近藤勇

宮川先生 ええ。勇は実直、純粋でありましたから、その教えそのままで生きたわけです。理心流は「忠君愛国の志を持ちなさい」「社会公共 国利民福を企て、それを実行するために理心流を使いなさい。理心流を極めた者は三軍を率いることができる人材になれる。天下を治平に導きなさい」と言っているわけです。

武田 なるほど。その教えを聞けば、近藤勇さんが自分を律した生き方の理由になったことがよくわかるような気がします。

宮川先生 純粋だったんでしょうね。初代近藤内蔵之助、二代三助、三代周斎が言った教えを守ったんでしょう。彼は「尊皇攘夷 尽忠報国」と常に言っています。倒幕を考えている人たちは同じく「尊皇攘夷」と言っているが、どうもやっていることが違うじゃないか、と思ったんでしょう。「尊皇攘夷」と言いながら不逞をはたらく浪士を取り締まったわけです。そこには憤りがあったのでしょう。だから会津中将松平容保公と一緒に皇御心(すめらみこころ)を、そして京を守ろうと考えた結果が新選組だったんでしょう。

武田 ご存知ない方のために注釈をつけるなら、皇御心を守ろう、天皇を守ろう、ということは当時の武士階級においての基礎常識みたいなものですよね。佐幕も倒幕も、いずれもその基礎常識の上にありました。特に偏った思想があったわけではないということを注意しておきたいと思います。

宮川先生 そうですね。

武田 作家浅田次郎先生も「壬生義士伝」、「輪違屋糸里」、「一刀斎夢録」で近藤勇さんを純粋で真面目な人として描いていらっしゃいましたね。

宮川先生 勇は子どもの頃から囲炉裏端で実父久次郎の膝に抱かれて、三国志や楠正成、加藤清正の話を聞くのが好きだったそうです。そういう幼い頃のエピソードと、学んだ内蔵助の考え方を重ね合わせると今までの小説やドラマ、映画には踏み込まれていない近藤勇の心が見えるように思います。「これが俺の生きる道だ」「これが俺の武士道だ」という思いだけで生きたでしょう。その真っ直ぐさ故に、矛盾を感じ行き詰ったときがあると思います。

武田 どんなときですか?

宮川先生 官軍と賊軍として戦うことになった、自分が朝敵とされたときでしょう。武田 自分達が天皇を守っていたのに、と思ったんでしょうね。整合性がつかなかったでしょうね。

宮川先生 天然理心流の根本精神は近藤勇の生き方を見ると理解できると思うんです。寛政年間から変わらない考え方です。門人達は稽古し、武術を修め、世の中の役にたつ人になりなさい。それが理心流の本流だ、ということです。

6)近藤勇生家ご遺族と、天然理心流の出会い

武田 そんな宮川先生と天然理心流の出会いを教えていただけますか?

宮川先生 今でこそいろんな文学や映画に取り上げられますが、私が中学や高校の頃には明治以来の悪役のイメージが新選組にも天然理心流にもありました。近藤勇の90年祭が龍源寺でありました。昭和32年、私は18,9でしたが、あまり目覚めていませんでした。

武田 東山三十六景、草木も眠る丑三つ時、と講談師が語り、新選組が悪役であった時代が長かったという頃ですね。

宮川先生 はい。昭和42年に近藤勇100年祭がやはり龍源寺でありました。そのあたりからですね。龍源寺の講演会に来ていらしたのが、小島総一郎さん。今東京は町田市小野路にある小島資料館の現館長のお父さんです。小島さんがいろいろご存知でお話を伺いました。NHK大河ドラマ「新選組!」でも描かれていましたが、近藤勇、小島鹿之助と、佐藤彦五郎の三人は仲良くて漢学を勉強したり、剣術を修行したりしていたそうです。義兄弟の契りまで結んでいたんだそうですね。その小島家の方と見た天然理心流の演武が初めてのふれあいでした。

▲天然理心流の太い木刀


武田 幕末の近藤勇の人との関係が今蘇る、といった雰囲気ですね。聴いていても興奮します。

宮川先生 昭和42年4月の100年祭のときは、宗家としては私の先代にあたる加藤伊助先生が、まだ宗家ではなかった頃です。四人ほどの門人が勇の墓前で、天然理心流独特の太い木刀を使い演武をしました。「これが理心流なのか」と思いました。

武田 あの太い木刀は有名ですよね。そのとき初めて見られたわけですね。

宮川先生 そうです。加藤伊助先生が私におっしゃいました.。

7)「血筋だ、天然理心流を勉強してくれ」

武田 なんと言われたんですか?

宮川先生 「宮川清蔵君は本家の血筋なんだから、今急に、とは言わないが天然理心流を勉強してくれないか」そうおっしゃったんです。私は調布に住んでいましたし、先生は三鷹に住んでいらっしゃいましたから、中々その段階で交流することはできませんでした。それからしばらく経って昭和45、6年頃のことでした。毎年1月5日は恒例の撥雲館(はつうんかん)道場の稽古初めなんですが―

武田 撥雲館道場と言うと

宮川先生 近藤勇五郎(近藤勇の甥。宮川家から近藤勇の娘たまの婿になる形で養子に入り、天然理心流四代目宗家近藤勇の跡を継ぎ、五代目宗家となった)が建てた道場です。宮川家の裏山から木材を伐りだし、門人の大工が作った道場なんです。

武田 稽古開きに行かれたんですか?

宮川先生 はい。本家として毎年の稽古初めには出席はしていたんです。しかし、この年は加藤伊助先生から「宮川君も稽古してみないか」と誘われて、初めて指導を受けました。その後、昭和47年1月5日撥雲館道場の稽古初めのときのことです。近藤勇史跡保存会の加藤武雄会長から「今年の稽古初めには天然理心流一門が集まり、大事なことを決めるので、宮川本家も来てくれないか」と言われました。

武田 一門で大事なことと言うと宗家のことでしょうか。

宮川先生 ええ。実は近藤勇五郎の後、七代目宗家を継いでいたのが息子の近藤新吉です。加藤先生は新吉先生と呼んでおりましたが、私からすればおじさんです。余談ですが、この新吉おじさんは、警察で剣道を教えるのに忙しく、加藤伊助先生に教えることが多かったのは勇五郎だったそうです。加藤先生から聞いた話ですが、加藤先生と二人きりのとき、道場にあった火鉢を前にして、火箸で灰に「この形はこうするんだ」と描いては他の人に見せないように消していたそうです。

武田 またリアルな話ですね。その域に達して初めて教わることができるもの、という点では、誰も文句のつけようがない話だと思います。

宮川先生 ところが七代目の新吉おじさんが昭和14年に亡くなっていました。それから30年以上天然理心流の宗家は空席だったんです。

武田 長いですね。

宮川先生 ええ。そこで一門が集まった稽古初めで、先ほどの近藤勇史跡保存会の加藤武雄会長が「やはり八代目を決めないといけないのではないか」とおっしゃり、三鷹の剣道連盟でも活躍していらっしゃった加藤伊助先生に「八代目を」となりました。加藤先生は勇五郎のお弟子さんでもありましたし。

8)「八代目はお預かりし、将来は本家にお返しする」加藤伊助先生

武田 大変失礼な話ですが、どんな武道団体でも、そのようなときにはもめたり、袂をわかったり、というのがつきもののように思いますが、もめなかったんですか?

宮川先生 他に高弟も何人かいらっしゃいましたし、いろいろあったようですが、加藤先生はこうおっしゃいました。「この八代目はお預かりするだけにします。将来本家にお返しするのが筋なので、この宮川君がその域に達したらお返しするよ」とおっしゃいました。そこで「将来本家に返すなら、八代目としてお預かりするのはいいんじゃないか」という流れになったんです。

武田 なるほど。頑張らなくてはいけなくなったんですね。天然理心流に近藤勇以来の本家が戻ってこられた感じになったんですね。

宮川先生 昭和50年、高幡不動尊で「新選組を語る会」が開かれました。そのときに天然理心流演武の要望があり、加藤先生が「では宮川君、一緒にやろう」ということで演武することになりました。近藤勇は宮川家から近藤家に養子に行きました。その生家の血をひいている意識をやはり持たざるを得ませんでした。勇に対しては、五代遡ることにはなりますが、私にとってはおじさんという印象です。

9)板橋の刑場、そのときの近藤勇の心境は

武田 近藤勇を身近に感じたのはどんなときですか?

宮川先生 不思議な話かもしれませんが、池田屋とか京での活躍の数々であるとか、というよりも、板橋の刑場に連れて来られたときの心境の方を身近に感じるんです。

武田 それはなぜでしょうか。

宮川先生 それは、私にとってはおじさんだからだと思います。

武田 身近なおじさんなんですね。

宮川先生 勇五郎からの伝えなんですが、勇は「今まで大変世話に相成った。礼を申す」と頭を下げたそうです。そのときの心境をよく考えます。天皇を守ること、徳川を守ることが臣下としての義であり、道であると考えていた。それがいつの間にか徳川は賊軍になった。そういうものからやっと解放されるとう安堵感があったでしょう。そしてそれと同時に「どうしてなんだろう?」という気持ちがあったと思います。

武田 「どうしてなんだろう?」と言いますと?

10) 恨み言を一言も言わなかった近藤勇

宮川先生 彼は恨み言は一言も言ってないんですね。

武田 そう言えば、今の人なら悪しざまに言ったり、ののしったりしそうですね。

宮川先生 勇は一言も言っていません。ただただ、君恩に報いられないことが残念であると言っているだけです。逆に言えば、その噛みしめた唇の奥にある無念さ、その深さを感じることができるように思います。彼には本当にいろいろな時期がありました。たとえば浪士組に入ったとき、絶頂期、たとえば鳥羽伏見の戦いで負けて江戸へ帰ってきたとき。でも、その間わずか五年です。板橋の刑場では、この五年のひたすら君恩に報いようと生きてきた日々のことを思い出したでしょう。でも、普通の人の一生分くらいを五年で駆け抜けたのかな、と思います。

武田 新渡戸稲造の武士道でも読みましたが、わかりやすく言えば、私よりも公を優先することが武士道の基本でもあります。これは現代の組織人にもつながることですから、そう考えると近藤勇の無念さはさらによくわかるような気がします。

宮川先生 そうですね。ひたすら天皇を、徳川を、と考えて生きてきたわけですからね。

武田 私も会津の近藤勇のお墓に行きました。

宮川先生 ああ、そうですか。ありがとうございます。

武田 会津中将松平容保公、土方歳三、そして無外流斉藤一が動いてできた近藤勇のお墓は、会津が見渡せる山の中腹にあります。立派な場所、立派なお墓でした。あそこに立ってみて、容保公からも頼りにされていたことを感じました。

宮川先生 あれだけの場所を与えられたんですからねえ。「社会公共 国利民福を企て、それを実行するために理心流を使いなさい。そして天下を治平に導きなさい」という理心流の教えをもって新選組を命がけ作ったんでしょう。京都で治安にあたったんでしょう。疑いもせずに。

武田 では、宮川先生が宗家を継がれたときのことを教えていただけますか?

次回夢録 その六は・・・

宮川勇武先生インタビュー後編です。
ついに近藤勇以来の方の元へ天然理心流宗家が継承されます。
そして天然理心流をやってみて初めてわかる近藤勇の心をお届けします!
それは武道に志す、全ての方に通じる心になるでしょう。
ご期待ください!

後編へ進む>>>