第19回 新選組三番隊隊長 斎藤一 直系ご子孫 藤田さん (前編) 生き残る強運 武士の心構え

第19回 

新選組三番隊隊長 斎藤一 直系ご子孫 
藤田さん (前編)
生き残る強運 武士の心構え

■2017年3月18日、新選組のふるさと、東京都日野市の高幡不動尊で「新選組隊士 及 関係者尊霊 150回忌総供養祭」が開かれました。

「新選組隊士 及 関係者尊霊 150回忌総供養祭」総供養祭

■発起人は近藤勇、土方歳三、沖田総司、永倉新八、斎藤一ら(隊士職位、隊順)新選組の大幹部ご遺族。
さらに、かつて新選組をその庇護下に置いた会津松平容保公の直系、14代ご当主の松平保久氏が最前列に。

■その中、演武をしたのは近藤勇ご遺族を9代目宗家にいただく天然理心流勇武館と、無外流居合鵬玉会。
その日、あらためてご用意するとお約束したお食事の席をご用意、斎藤一直系のご子孫と遂に二人でお会いすることがかないました。

■どのような方もそのご家庭の風土の中でお育ちになられ、その考え方や行動、判断の仕方はその風土の影響の中にあるはず。その風土を作ったのはお父さまお母さま。そのお父さまもさらにお父さまがいらっしゃるわけで、今のご子孫のお人柄を通してみれば、ご先祖のご様子、たたずまいも想像できそうです。

■今回お話した中で、問題がなさそうな部分のみを抜粋してご紹介しようと思ったのは、そういう些細な話の奥に、ひいお爺様である新選組三番隊隊長であった斎藤一さんのお姿が見えるような気がするからです。

■ただし、ご子孫は表に出られることをあまりお好みにならない方なので、あくまで「藤田さん」としてご紹介したく思います。

(インタビュー 武田鵬玉)

藤田さん
新選組三番隊隊長直系のご子孫とついにお会いすることになりました。
表に出られない方なので、「藤田さん」とだけお伝えしますが、そのお話はぜひご紹介したい内容でした。

1)新選組三番隊隊長斎藤一直系のご子孫

藤田さん 無外流の免許を受けられたとのこと、おめでとうございます。

300年を超える武道の歴史を背負う、無外流居合の免許の受領式

武田 ありがとうございます。肩書自体はまだまだこれからなので、偉くなったと誤解しないよう気をつけたいです。それより鵬玉会を通じて日本に武道を普及させたいという思いの方に優先順位があります。藤田さんは、ずっと海外にいらしたんですよね?そのお仕事の話をお聞かせ願えますか?

藤田さん ある自動車部品メーカー入社以来、20年間ほど生産技術部門で働いていました。米国工場設立の計画が持ち上がり、GMのある事業部とジョイントベンチャーを設立することになりました。貿易摩擦で日本へのバッシングが凄いころで、大変な時代でした。

武田 80年代ですよね?テレビで連日貿易摩擦のニュースが流れていましたよね。

藤田さん ええ。そこで輸出はしづらい。現地で作ろう、そこで雇用も創出しよう、と多くの企業が現地生産を目指しました。私のいた会社でも、「まず相手のことを知らなければわ始まらない」ということで、見に行きました。

武田 言わば斥候(せっこう;ものみ)ですね?(笑)

藤田さん (笑)行ってみたらスケールが全く違うのに驚きました。

武田 どこが違いましたか?

2)とにかく話し合うことが重要だ

藤田さん アメリカでは少ない種類のものを、大量に作ることで競争力が高まると考えます。日本では、数は少なくてもお客様の要求を満たす多種のものを、大量生産品と同じコストで作ることを考えます。そういう基本的な哲学の違いがあります。

武田 その解決は大変そうですね。方向性がそもそも違う、ということでしょうから。

藤田さん ええ。なかなか考え方が合いませんでしたから、進出しようとするどの企業も現地企業と一緒にやっていくのは大変だったろうと思います。

武田 一緒にやっていくために妥協点というか、折り合いはどうやってつけられたんでしょう?

藤田さん とにかく話し合うことでした。

武田 コミュニケーションですか。

藤田さん そうですね。徹底して話し合って、理解しあい、妥協点を見つけるしかないのだと思います。彼らは彼らで「これがいい」と思って何十年とやっていることがあるわけです。ある意味で世界最高の工業国であるわけですし。そんな彼らからしたら、日本では一桁、二桁少ない数のものを、彼らより高い生産性で生産するということは、彼らにとっては信じられないでしょう。思ってもみなかったようなことの繰り返しだったと思います。

3)満州で生まれて、混乱の中、3歳で日本へ

武田 お生まれはどちらだったんですか?

藤田さん 生まれは満州です。終戦の年に、3歳で初めて日本に来ました。

武田 !それは凄い!終戦の混乱の中、お父さまお母さまのご苦労は凄かったでしょう?

藤田さん 終戦が8月、日本に来たのが12月ですが、よく死ななかったなあ、と思います。

武田 お母さん、凄いですよね。手をちょっとでも離せば孤児になる可能性がある時代ですから。

藤田さん ええ。よく戻ってこられたなあ、と思います。

武田 お父さまは何をされていたんですか?

藤田さん 父は満州国の建設省に勤めていました。母は満州鉄道に勤めていた母の兄と一緒に向こうにいました。現地で見合い結婚をしたのです。

武田 ということは、お父さまや伯父さまは国家の仕事をされていた方たちですね。

藤田さん そうですね。

武田 斎藤一さんも会津松平容保公のもと、新選組はいわば当時の国家の仕事ですし、考えればエリートですよね。そういうご一族なんでしょうね。

4)大陸の風景

大陸からの引き揚げ。内地を前に亡くなられた引き揚げ者の葬儀。過酷だったのだろう。

藤田さん 父は満州で召集を受け、終戦時は陸軍中尉として宮古島に出征していました。そのため、満州からの引き揚げは、母と私と私の妹、母の兄の一家が一緒でした。

武田 宮古島!

藤田さん 誰もが父のことを「死んだだろう」と思っている中、生き残って再会できたのです。

武田 よかったですねえ!終戦のときのご様子をお聞きしていいですか?

藤田さん その頃のことは幼かったためによく覚えていないのです。ただよほど強烈な印象だったのでしょう、引き揚げの時の2つのシーンだけは覚えています。

武田 どのような?

藤田さん 無蓋(むがい)の貨車に乗っている光景です。

武田 屋根がない、ということですね?

田さん はい。それに各人の荷物が敷き詰めたように置かれ、その上に人がびっしり乗っているのです。その列車がだだっ広いところをトコトコ走っているのです。

武田 いかにも混乱期の大陸的な光景ですね。

藤田さん もう一つの印象的なシーンは船の中で、先程の無蓋貨車同様に、人がびっしり乗っていた光景です。

武田 そのような混乱の記憶なんて、聞いていないと風化してしまいます。今日は歴史の風景に語り継がないといけない、ものすごく貴重なお話をお聞きしていますね。

藤田さん 母の苦労は、あまりに幼くてわからなかったのですが、大変だったろう、よく戻れたな、と思います。

5)強運の一族

武田 一言で言ってはいけないでしょうが、「強運」なんでしょうね。

藤田さん その後私は東京を中心に関東におりました。入社後20年間、国内勤務でしたがその後米国工場建設プロジェクトに移りました。

武田 アメリカ、ヨーロッパ、アジアと海外赴任、海外のお仕事で活躍されたんですね。

藤田さん そうですね。会社生活の後半24年間の半分以上を海外で過ごしました。今は日本に落ち着いて暮らしています。

武田 世界でご活躍できたのも、終戦の混乱の中生きて戻れた強運がついていたからですよね。お父さまも死んでおかしくない宮古島から生還された強運がおありです。ひいお爺様の斎藤一さんにいたっては、幕末の混乱期、新選組というまさに戊辰戦争まで続く激戦を生き残られ、明治になっては警視庁抜刀隊として西南戦争も戦われ生き残られた。まさに強運です。

藤田さん 祖父は職業軍人で、日露戦争を戦いましたが、生き残って帰ってきました。

武田 !まさに強運ですね!

藤田さん そうですね。私はいつも、運が良いと思っています。

武田 斎藤一さんのご一族は、藤田さんに続くもって生まれた「強運」がついているのかもしれませんね。その「強運」とは何か、が今日のテーマなのかもしれません。私は、今日そのオーラをいただいて帰ります。

6)「お前は死にたいのか?」

新選組三番隊隊長 斎藤一。近年藤田五郎(斎藤一)さん次男のご子孫のところから発見された。目鼻の通ったいい男でありながら、修羅場をくぐった目は凄みがある。

藤田さん (笑)私は祖父にかわいがられました。その祖父から曽祖父の話を聞いたことがあります。

武田 斎藤一さんですね。

藤田さん 祖父から「お前のひいお爺ちゃんは新選組の幹部だった」と幼いころに初めて聞いたときは驚きました。よくわかりませんから、「これは大変なことを聞いた。人に言ってはいけない話だ」と誰にも言いませんでした。

武田 近藤勇のご遺族宮川清蔵勇武先生も当時は「新選組は悪役のイメージで・・・」とおっしゃっていました。今はようやくいろんなことがわかってきましたからね。

藤田さん はい。話は変わりますが、父がある時、何気なくのれんを頭で分けて外に出ようとしたのを見た祖父から、「男には一度外に出たら7人の敵がいるのだ。頭から出ようとした時に、頭を斬られたらそれで終わりだ。しかし足から出るならば、仮に足を斬られたとしても、座りながらでも敵と戦うことができる。頭でのれんを分けて外へ出るなぞと、みっともないことをしてはいかん」と叱られたそうです。

武田 え?

藤田さん そののれんの脇に刺客が隠れていることも考えて気をつけなければならない、ということですね。

武田 !なるほど!そう言われてみれば、下手をすると首をくれてやることになるかもしれませんね。この話には痺れました。そういう心構えが、斎藤一さんを生き残らせたんでしょうね。

7)武士の心構え

戊辰の役150回忌 新選組隊士 及 関係者尊靈 総供養祭にて

藤田さん 武士の心構えというのは大変です。言葉を発するにも、よく吟味して言わなければなりません。ある時、祖父と話をしていて、私がつい、「本当?」というと、「いいか、「その話は本当?」などと他人に言ってはいけない。」と言われました。

武田 どういうことですか?

藤田さん もう65年以上も前の話で、名前は忘れましたが、ある侍が他人にあることを話した時に、「本当か?」と言われて「俺は武士だ。嘘は言わない。嘘かもしれないと思われたのは自分の不徳である」と恥じ入ってその場で切腹したということです。それ以来、「本当か?」とは言わないようにしています。つい言ってしまうことはありますがね。

武田 !私も気をつけます。

藤田さん (笑)五郎(斎藤一の後の名)は、いつもピシッとしていたそうです。だらけて座っていると、曽祖父は通りしなに知らない顔をして崩れている足を踏んだりしてたそうです。(笑)

武田 武士のそういう心構えからくる所作はすべて生き残るためだ、というようなことを新渡戸稲造翁も名著「武士道」に書いていらっしゃいます。今お聞きしたエピソード、薫陶も生き残るための術であり、心構えなんでしょうね。そういう一族の薫陶を受けた藤田さんがいつもビシッとされて眼光鋭いのも納得しました。

藤田さん 家内からはよく「怖い顔をしているネ」と言われます。(笑)

武田 (笑)そういう術や心構えが家族風土の中にあったからこそ、生き残れたという一族皆様の「強運」につながったのかもしれませんね。

藤田さん そうでしょうかね。先程も言いましたように、私は「強運」という言葉より、「私は運が良い」という方が好きですが。

8) 所作には生き残るための意味がある

武田  (笑)居合の流派すべてが同じではないかもしれませんが、少なくとも無外流では正座の仕方一つにも意味があります。足は親指を重ねないんですね。

藤田さん はい。

武田 私が思うに、おそらく理由は二つ。一つは右からでも左からでもとっさのときに足を出せるようにしておくこと、もう一つは重ねた足をふいに踏みつけられたら、足が抜けずに仕留められる可能性がある、ということじゃないでしょうか。

藤田さん なるほど。

武田 「侍の最終的に行きつくところは坐脱だ、座って逍遥として死も受け入れられるように修練するんだ」いうようなことを明治天皇の教育係、幕末の三舟のお一人、山岡鉄舟先生もおっしゃっています。斎藤一さんはその坐脱をされています。そこに一歩でも半歩でも近づければいいなあ、と思います。

9) 頑健な藤田さん

藤田さん 老年の祖父は老年の曽祖父(五郎)とよく似ていたようです。私が、老齢の五郎の写真を初めて見た時、すぐに彼だとわかったのはそのためです
武田 本当に整った、いい男ですよねえ。

藤田さん 祖父は眼光が鋭く、一見怖そうでしたが、実際には大変親切で、なんでも教えてくれる人でした。存命の頃にもっと話を聞いておけばよかったなあ、と思います。

武田 でも、その薫陶、家庭の雰囲気はきっと脈々と続いて、今この場の藤田さんにも生きていますよ。

藤田さん 私は剣道はしませんでしたが、スポーツは好きでした。ワンダーフォーゲル、ラグビーその他色々やりましたし。

武田 ラグビー!またきついスポーツを。

藤田さん 高校生の時にやっておりました。会社に入って2年目にラグビー部が出来たので参加し、40歳台半ばまでやりましたよ。

武田 藤田さんの印象は、筋肉質で頑健な感じですもんね。「戊辰の役150回忌 新選組隊士及び関係者尊霊総供養祭」で写真をご一緒したときは、迫力がある一枚になりましたもんね。

藤田さん そうですか。

後ろ奥がひいお爺様の、元新選組三番隊隊長斎藤一(当時藤田五郎)さん。
藤田さんのお爺様にそっくりだったのですぐにわかったとのこと。


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