夢録07 新選組六番隊組長 井上源三郎 五代目子孫 井上雅雄先生

夢録07 

新選組六番隊組長 井上源三郎 五代目子孫 井上雅雄先生

第7回の夢録は、第5回6回の夢録「天然理心流 宮川清蔵勇武宗家」
の勇武館副会長 井上雅雄先生のインタビュー。
井上先生はなんと、幕末の京で一世を風靡した新選組六番隊 井上源三郎組長のご子孫なのです。

かつて作家浅田次郎先生も審査員をし、NHK大河ドラマ「新選組!」のキャストもゲスト出演した、ひの新選組まつり。

その2009年の回のこと。
この夢録でインタビュアーをしている私、武田鵬玉は近藤勇役を拝命いたしました。
全国から集まったファン300人を率いて歩いたときには、近藤勇の興奮というものを感じたように思いました。

以来演武でもご一緒し、天然理心流宗家の宮川清藏勇武先生とはありがたいご縁ができました。
その宮川先生の勇武館副会長でいらっしゃる井上雅雄先生にインタビュー。
先生は、NHK大河ドラマ「新選組!」では「源さん、源さん」と呼ばれていた新選組六番隊組長 井上源三郎の五代目のご子孫。
近藤勇、土方歳三、沖田総司、井上源三郎の天然理心流と、斉藤一の無外流は新選組以来ご縁が深い流派。
そういう意味では、この夢録でご紹介するのに、ふさわしい方のお一人でいらっしゃるのではないかと思います。

内容が濃いため、今月と来月の二回に分け、前編後編でお届けします。(インタビュー 武田鵬玉)  

※ 本インタビューの記載事項は当時のままです。

井上雅雄先生
天然理心流九代目宗家宮川先生とともに、勇武館でご指導される勇武館副会長。そして新選組六番隊組長 井上源三郎の五代目子孫でいらっしゃることから、井上源三郎資料館の館長をしていらっしゃいます。

1)新選組六番隊組長井上源三郎さんのご子孫

武田鵬玉(以下武田) 今日は天然理心流九代目宗家宮川先生のご紹介で、天然理心流勇武館副会長をしていらっしゃる井上雅雄先生です。よろしくお願いします。

井上雅雄先生(以下井上先生) よろしくお願いします。

武田 先生は新選組六番隊組長井上源三郎さんのご子孫なんですね。

井上先生 第五代の子孫に当たります。

武田 先日の近藤勇局長のご遺族宮川先生といい、井上先生といい、私は歴史を触っているんだな、とワクワクします。新選組創立メンバーの井上源三郎さんのことを知るところから、私は無外流ですが、流派の壁を越えて、天然理心流を通じて武道、武士道の核に迫りたいと思います。

井上先生 はい、よろしくお願いします。

武田 NHK大河ドラマ「新選組!」をご覧になっていた人たちからすると、井上源三郎さんと言うば、「源さん」という呼び名がぴったりの、優しい世話役とでも言いたいようなイメージです。その源三郎さんのことからお聞かせ願えますか?

2)甲斐武田家の旧臣、八王子千人同心

 
武田信玄/武田晴信像

井上先生 源三郎は井上家の先祖です。この井上家は甲斐武田家の旧臣だったんです。

武田 甲斐武田家の遺臣は、集められてこの地域におかれ、八王子千人同心と呼ばれたんですよね。

井上先生 そうです。甲斐武田家の遺臣は、千人同心として多摩地方の幕臣になりました。扱いは幕臣です。

武田 なぜ多摩だったんでしょう。

井上先生 この地域は甲州口と言って、武蔵と甲斐の国境です。その警備と治安維持だったようです。

武田 これは大変失礼な言い方かもしれませんが、一般のイメージは天然理心流をやられていた方達は武士階級ではなく、新選組はそんな人たちが作った、というものだと思います。そんなイメージからしたら、ちょっと今回の夢録は、出だしから「?」と思われるかもしれませんね。井上家は幕臣だったわけですから。

井上先生 八王子千人は武田家から248名が徳川家に残されました。井上家で第七代目千人同心をつとめたのが源三郎の兄井上松五郎でした。

3)井上源三郎さんのお兄さん、松五郎さん

武田 確か松五郎さんには、近藤勇局長も刀を京から贈っていますよね。

 
ケースの中には井上源三郎氏の、天然理心流切紙、目録、中極意目録、免許と錚々たる巻物が。


井上先生 ええ。松五郎は近藤勇局長にとっては重要な人に当たりました。新選組の相談役とでも言うべき立場だったんです。
なぜそんな立場だったか、という理由もはっきりしています。天然理心流と言えば近藤勇、土方歳三、沖田総司、井上源三郎がその生え抜きです。この四人よりも松五郎は一段上なんです。

武田 え?そうなんですか。

井上先生 天然理心流は切紙、目録、中極意目録、免許という順番です。源三郎は免許まで持っていました。しかし、実は免許の上に印可、指南免許というのがあります。この指南免許をもらうと道場を開けますし、教えることもできます。松五郎はこの指南免許を持っていました。

武田 すると、井上松五郎さん自身が天然理心流の大看板だったんですね。

井上先生
 実際に松五郎がもっていた、それらの証書がこの資料館には展示してあります。こういった形で松五郎が資料をたくさん残してくれていますので、当時の様子をわかる所以にもなるわけです。

武田 なるほど。

4)近藤勇の養父を盛り立てた井上松五郎さん

 

井上先生 この切紙をご覧ください。これは「入門を許した」というイメージです。

武田 今の方達にわかりやすく言うなら、それまでただの一会員であったのが、そこからようやく弟子になった、というイメージでしょうか。

井上先生 そうですね。切紙くらいで、今で言う三段くらい。目録で、四段くらいのイメージではないかと思います。その弟、源三郎は近藤勇の先代近藤周助に入門しました。その嘉永元年三月、切紙と目録を同時に取得します。

武田 非常に早いですね。

井上先生 早いのにも理由があります。天然理心流初代近藤内蔵助、二代三助は八王子の戸吹の人なんです。井上家の前の道を1時間位歩いていくと八王子の戸吹の道場前に着くんです。源三郎とお兄さんの松五郎は、元々この戸吹の道場に行っていたわけです。

武田 なるほど。

井上先生 近藤三助は元々坂本三助方昌(みちまさ)といい、同じ千人同心でした。

武田 そもそも近藤勇局長の養父周助の先代である三助さんに学んでいたわけですね。

井上先生 そうです。そこで知り合った近藤周助をここに連れてきて

武田 この井上先生の家ですか?

井上先生 はい。今はありませんが、雨の日には広い土間で、晴れた日には井上家の庭で稽古し、そこを中心に近藤周助に天然理心流を広めさせたわけです。

武田 お茶をついできたり、縫物をしたり、庭掃除をしていた、というテレビのイメージとはずいぶん違いますね。

井上先生 そんな点だけではありませんよ。井上家の庭ではまかなえないくらい人数が増えたようです。そこで、この家の前の欣浄寺(ごんじょうじ)を借りて稽古するようになり、そこでもまかなえないくらい増えて宝泉寺で稽古するようになったんですね、

武田 天然理心流は貧乏道場であった、というイメージも覆りますね。

井上先生
 そうなんです。その後、佐藤彦五郎さんの道場ができて、向こうで稽古するようになるわけです。

5)実は従兄弟どうし、井上源三郎組長と沖田総司組長

武田 そもそもなぜここに近藤周助さんを連れてきたんでしょう。

 
▲井上家の家系図 松五郎氏・源三郎氏から雅雄先生まで。林太郎、沖田総司も登場する。

井上先生 実は、二代目が、町田に出稽古に行っていて、若くして突然亡くなってしまうんです。

武田 それは大変ですね。

井上先生 実際の技としては天然理心流が伝えたものの中で剣術・棒術・柔術・気合い術のうち、気合い術が継承されずに途切れてしまいます。結果、この二代目と三代目の間に十年と十か月の空白が生まれてしまうんです。

武田 今の武道団体ならここで流派の名前をあげて乱立しそうですね。

井上先生 実際、この間松崎正作栄積とか、増田蔵六一武とか、強くて免許も持っているような人がいたんです。

武田 そういう方達が三代目とはならなかったんですね?

井上先生 井上松五郎が働いたんです。ここに近藤周助を連れてきて、三代目になれるようにですね。そして源三郎も免許まで持つようになります。

武田
 では、そのあと登場する近藤勇からしても、大叔父さんのようなものだと考えるほうが筋が通ってますね。

井上先生 確かに事績をたどればそう考えるほうが正しいと思います。もう少し、世の中に出ていないおもしろい話をしましょうか。

武田 まだありますか?(笑)ここまででも随分常識が変わりました。

井上先生 (笑)この井上の庭で松五郎、源三郎兄弟は剣術の稽古していたわけですが、近所の人たちも当然集まってきて稽古に入ってくるわけです。その中の名前に沖田総司の名前が出てきます。源三郎と沖田総司は実は従妹なんです。

武田 えー!知りませんでした。

井上先生 この前の道をはさんで通り向こうの四軒目に井上という表札が出ています。井上家の分家ですが、そこに生まれた林太郎が総司の姉ミツと結婚して

武田 あ!新徴組の沖田林太郎ですね!みんなつながっているじゃないですか?!

井上先生 そうなんです。総司は五歳から九歳までは日野で育ち、松五郎や源三郎に剣を習っているんです。九歳のときに松五郎に連れられて、近藤周助の試衛館道場に入門したんです。

武田 めまいがしてきました。(笑) 人間関係のイメージがガラリと変わりました。 思いっきり親戚じゃないですか?

井上先生 (笑)その後もこちらの道場は松五郎、源三郎兄弟でまとめていくことになります。

6)井上源三郎免許。そのとき、近藤勇二十四歳、沖田総司十六歳

 

井上先生 通り少し先にある八坂神社に奉納額があります。ご存知のように名前の順番は重要です。

武田 序列ですからね。名前の順番は今よりうるさいんですよね。

井上先生 そうです。これを見ると井上松五郎が剣術が強かったことがわかります。源三郎の名前も出てきます。さて、武田さん、最後に書いてある名前を見てください。

武田 ・・・島崎勇・・・、宮川家から一旦養子に入った島崎家の名字の近藤勇ですね?そのあと近藤家の養子になるんですよね?

井上先生 そうです。文久元年8月27日大國魂神社で天然理心流宗家四代目襲名披露の野試合が行われ、近藤勇となりました。当時近藤勇28歳でした。

武田 若いですねえ。

井上先生 沖田総司は九歳で試衛館に入り、16歳には近藤勇と出稽古に出、腕っぷしが強い連中と平気で練習できたと言いますから、相当強かったんでしょう。さて、武田さん、もう一つ気づきませんか?

武田 ・・・副長土方歳三の名前がありません。

井上先生 昨日もNHKの番組が取材に来て驚いていました。近藤、沖田、源三郎は免許を持っています。でも土方歳三はこの頃は・・・

武田 まだ世にも出てきていない感じですね。

井上先生 もっていたのは中極意目録です。

武田 なるほど。

7)近藤勇四代目襲名披露。そのとき門弟は・・・

井上先生 この奉納額の最後に日付が記載してありますが、見てください。

武田 安政五年ですね。

井上先生 土方歳三が天然理心流に入門したのは安政六年三月九日です。

武田 まだ薬箱をもって行商をしていた頃なんでしょうね。私はその安政に作られた十一代兼定を一振り持っています。

井上先生 土方歳三の青春時代でしょうかね。

武田 世に出ていくのは京都からだということでしょうか。いずれにしても、井上源三郎さんという方の立ち位置のイメージを変えなければなりませんね。序列が後にどんどんあがった副長土方歳三はなぜ序列があがっていったか。仕事ができたか、局長近藤勇の信任が厚かったか、おそらく両方でしょうが、この時期の天然理心流という剣術の中ではまだ無名に近いということでしょうか。副長土方歳三の生き方は憧れますので、そういった経緯は興味深いです。

井上先生 私も土方歳三は大好きです。(笑) ではもう一つ、印象が変わるものをお見せしましょう。近藤勇の天然理心流四代目宗家披露の際に7m近い額を奉納しているんです。見てください、そこに名を連ねた近藤勇の門人の数。

武田 えー!何人いるんでしょうか。

井上先生 門人は千二百余人の名を書き終えています。

武田 凄いですね、大勢力に思います。

井上先生 驚くのはまだ早いですよ。この後の勇五郎の時代になったら奉納額に連なる名前は二千人だったそうです。

武田 貧乏道場だった、という印象はガラッと変わりますね。

井上先生 このお披露目で儲かったお金は五十五両、うち五十両は周助、五両が近藤勇にいったそうです。(笑)相当集まったんでしょうねえ。
武田 凄いですね。

井上先生 上から二行目、近藤勇の横、左から二つ目に井上源三郎。鉦役だったんですね。沖田総司が太鼓役。松五郎は真剣を使い、模範試合を行っています。この当時の天然理心流の看板が近藤勇、沖田総司、そして井上松五郎、源三郎兄弟の四人であったことがわかります。

8)大和守源秀国 二尺五寸

武田 いや、先入観というのは恐ろしい。これで読み取れる天然理心流は一大勢力です。近藤勇局長が、幕府が作った講武所の教授方になりかけた、というのも理解できます。

井上先生 そうですよね。さて、武田さん、どうぞこれをご覧ください。

武田 おお!これは近藤勇が京から井上松五郎さんに贈ったという大和守源秀国ですね!実物は迫力がありますねえ!

井上先生 会津に注文し、直接松五郎のところに京都の土産として持参しています。

武田 自ら持参した、というところが関係性を示してもいるようですね。それに、当時でもとてつもなく高価だったでしょうに。

井上先生 長さもすごいですよ。二尺五寸です。

武田 私達居合はもっと短く二尺三寸くらいを使いますから、剣術だとは言っても長い刀ですね。

井上先生 源三郎で1m65cmくらい、土方で1m67cmくらい。昔の男は今ほど大きくはないですから、それを考えればさらに長いと感じますよね。

武田 この刀一つに歴史がありますね。

井上先生 新選組の当時の源三郎の仕事は近藤勇のお目付け役、今風に言えばSP役ですね。

武田 お茶を入れたり、繕いものをするのではなく。(笑)

井上先生 (笑)。近藤勇はまだ若いですからね。源三郎は近藤勇より10年も先に免許をとっている兄弟子です。京都では何かあったときのために、必ず近藤勇の隣に源三郎がいるわけです。

武田 そこもイメージが違います。

9)初期京都の時代、公の交渉に行くのは・・・

井上先生 京都の霊山資料館の木村館長さんがそれがわかる資料を見つけてくださいました。新選組となるまでの初期京都の時期、公の席に話し合いに行くのは近藤勇でも芹沢鴨でもない。源三郎、あるいは林太郎だったことがわかりました。

武田 凄い資料ですね。

井上先生 文久3年(1863)2月から9月の日記です。

武田 文久3年と言うと・・・京に上った頃ですね?

井上先生 そうです。まだ新選組ではなく、浪士組であった頃です。上洛の様子もわかりました。「見聞日記」と呼ばれています。

武田 誰が書いたんでしょう?

井上先生 幕府側の視点で書かれている日記なので、幕臣か水戸藩士が書いている、と推測されています。その証拠に、そこには清川八郎のほか、井上源三郎、沖田林太郎、新見錦など11名が代表的な浪士として描かれているんです。

武田 そもそも八王子千人同心、歴とした幕臣だと見られていた、ということもあるんでしょうか。また、お見せいただいた書を見ると教養もあった方のように思えます。
井上先生 そう言っていただけると嬉しいです。とにかく、その資料のことが京都新聞に載ってからは少し世間のイメージも変わってきた、というところでしょうか。源三郎は幼い頃から旧甲斐武田家の家臣だという意識を持たされて、文武に励んでいたということです。

武田 本当に先入観というのは恐ろしいですね。

井上先生 じゃ今から皆さんご存知ない話をお教えしましょう。これは新選組ドラマのどこにも出てきませんよ。これらの関係がわかって初めて迫ってくる話です。

武田 ぜひお教えください。ここまで知って、聞かなかったらきっと夢に出てきます。(笑)

次回夢録 その八は・・・

井上雅雄先生インタビュー後編です。
井上先生と天然理心流との出会いは宮川宗家が・・・
近藤勇と井上源三郎が現代に蘇るような
この物語を通じて、武士道に迫ります。
ご期待ください!