夢録10  土方歳三資料館館長 新選組副長土方歳三ご子孫 土方愛さん(後編)

夢録10 

土方歳三資料館館長 新選組副長土方歳三ご子孫 土方愛さん(後編)

鵬玉会結成初年度、2013年の夢録の掉尾を飾るのは・・・
新選組の土方歳三副長のご子孫として、土方歳三資料館館長を務められる土方愛さん。
そして奇しくも2013年は新選組結成150周年なのです。

かつて作家浅田次郎先生も審査員をし、NHK大河ドラマ「新選組!」のキャストもゲスト出演した、ひの新選組まつり。

その2009年の回のこと。
この夢録でインタビュアーをしている私、武田鵬玉は近藤勇役を拝命いたしました。
全国から集まったファン300人を率いて歩いたときには、近藤勇の興奮というものを感じたように思いました。

その審査席には、土方愛さんのお母様もいらっしゃいました。
以来何度もお会いするご縁があり、今回あらためてインタビューの機会を得ました。

幕末の京以降の活躍は多く語られますし、映像にもなりましたが、組織のNo,2として新選組を作り上げた、そのリーダーシップがどう形成されていったか、若き土方歳三について語られたことはほとんどありません。
このテーマは、私にとっては非常に興味深い内容ですが、なんらかの組織に携わるすべての人にとっても興味深い話ではないでしょうか。

結成初年度の会のためにも、150年前の新選組 土方歳三副長に学びたいと思います。
後編をお楽しみください。
(インタビュー 武田鵬玉)

9)混沌としていて、肩書きや、それまで勉強した知識だけでは生き抜いていけない社会

土方歳三資料館 土方愛館長(以下土方さん) 組織の命運を預かっているんですからね。

武田 そうですよね。武道の世界では自分より上位の人がいたとしても、組織の中ではそればかりも言ってられない。組織は、組織全員の命を預かっているわけで、組織ができあがっていくときに、剣の腕云々とは言っていられなくなったんでしょう。そんなとき、「この人の言うとおりにすれば間違いない」とでも言うような力量が土方歳三さんにはあったんじゃないか、と推測できそうです。

土方さん 周りが歳三さんのことをそう思わない限りは、そんな集団でリーダーシップを発揮するのは無理かもしれませんね。剣術で何段とか、剣術の上での肩書きがどうだ、と言う方はた他にいたわけですし。そう考えれば、組織のリーダーと言うのは大変ですね。さらに幕末は混沌としていたでしょうし。肩書きや、それまで勉強した知識だけでは生き抜いていけない社会だったのではないでしょうか。

武田 現代とダブりますね。

土方さん その中で生き抜いていく能力が必要とされていたんでしょう。

武田 そういう判断力、思考力というのは、リーダーとしての力と魅力につながっているように思います。リーダーとしての魅力。それを考えるときに、「これはもう負けるぞ」と最後はわかっていながらついていく人たちが山ほどいたということは無視できません。

土方さん 考えると不思議ですよね。最後の最後までついていった方たちがたくさんいらっしゃるんですから。

10) 「どうやって戦い、勝つか」最後まで前向きだった

武田 作家浅田次郎先生は。「土方歳三という人は、人の生き方を見て学び昇華するところがある」とおっしゃっています。近藤勇局長によって官軍に捕えられれば斬首される、という事実を学んだときに、函館で戦死することを選んだように思います。華々しく戦い死んだ函館の一本木関門にも行きましたが、非常に感慨深いものがありました。

土方さん 函館での戦いを見ると、「どこで死のうか」と彷徨っている感じじゃないんです。あくまで「どうやって戦い、勝つか」最後の最後まで勝つこと、巻き返すことに賭けています。

武田 なるほど。自分を信じてついてきた人たちにも責任を感じていたでしょうね。

土方さん 亡くなったメンバーに対する責任もあったでしょう。だから、途中で降りない、と思っていたのかもしれませんね。そういうときには意地で依怙地になるところでしょうが、あくまで前向きで明るい。

武田 それが人を惹きつけたんでしょうね。

11) 甘えん坊の末っ子が自立してリーダーシップを発揮

土方さん でも当時は敗軍の将です。土方家でも当時大変だったんですよ。こうやってようやく再評価されたのも最近の話なんです。そんな大変な状況下、彼の身近な人たちにとっては忘れられない人であったようです。生き残った隊士達の中で日記なんかを携えて相当土方家を訪問してくださっています。何があったかを報告したい、歳三さんの真の姿を副長の実家に伝えたい、という思いがあったんでしょうか。

武田 それは凄い話ですね。
土方さん そういう隊士の気持ちを考えると、歳三さんには、人を惹きつける魅力があったんでしょうね。

武田 甘えん坊の末っ子が自立してリーダーシップを発揮するようになるきっかけというのはどこだったんでしょうか。

土方さん 最後まで甘えん坊だったんじゃないかと思いますよ。甘えん坊という面ではなく、のびのびして天真爛漫だった側面が強かったように思いますが、そこを失わなかったところが魅力的だったんじゃないでしょうか。

武田 なるほど。10人も兄弟がいて、のびのびしていたら、人をよく観察しながら成長したのかもしれませんね。その子ども時代が、後の新選組に生きているような気がしてきました。

12)根っこにあったのは末っ子ののびのびした、いたずらっ子の歳三さん

土方さん 箱館に行くに従い、「鬼の副長」としての面ではなく、愛情にあふれた人のようになったと言われますよね。それは成長しているようにも見えますが、実は素に戻っていった、と言えるように思います。

武田 ああ、なるほど。そういう見方は自然かもしれませんね。

土方さん 近藤勇さんは新選組のアイコンですよね。トップです。それを支えるのは副長の役目ですから、組織のNo.2として人と接するのも厳しい姿勢で臨むわけです。しかし、近藤さんが千葉の流山で別れていなくなった。それだけではなく、井上さんや沖田さんもいなくなった。組織のNo.2としての顔を意識して作るのではなく。自分のキャラクターを反映できるようになり、自由になっていったようにも見えます。そう考えれば、根っこにあったのは末っ子ののびのびした、いたずらっ子の歳三さんのように思いますよ。

▲土方さんの肩越しに見えるのは、箱館から届けられた土方歳三佩刀の十一代兼定。幕末の京を駆け巡った本物がここに。 

13) よくぞ土方歳三副長愛刀の十一代兼定が残った

武田 その後のご苦労話は凄かったんでしょうね。宮川先生、井上先生からもそのあたりのご苦労された話はお聞きしました。よくぞ土方歳三副長愛刀の十一代兼定が拵えも含めて残ったな、と思います。

土方さん 供出で出さざるを得なくてね。脇差の堀川国広はなくなりましたが、この先祖ゆかりの兼定、十文字の槍だけは、ということで残してもらったそうです。

武田 兼定は、柄糸がボロボロですね。柄糸は革でしょうか。

土方さん いえ、巻きなおすことなく、柄を漆で固めているんですよ。

武田 それは凄いですね!この柄を見るだけで、土方歳三さんの覚悟が伝わってくるような気がします。箱館から市村 鉄之助氏が託されて持ち帰ったこの一振りを見て、ご親族は驚かれたでしょうね。お洒落であった土方歳三さんが、巻きなおさずに漆で柄糸を固めていたんですから。覚悟が十分あったんでしょうね。

土方さん 巻きなおす時間もない激戦だった、ともいえるのかもしれませんが、とにかくこの一振りを守るのも大変でした。中極意位目録だって、名前を隠すために改ざんしているんですよ。歳三を削って義昌と書かれています。

武田 勝った側にも理屈はあり、負けた側にも理屈はあるんでしょうが。

土方さん 長崎に行ったことがあります。そこから見るとまた景色も違って見える。当時あれだけ外国人と接するところなら、関東から見た正義とは違う考え方もあったんでしょう。歴史は双方の立場から見ないと理解できないように思います。

武田 私は福岡ですが、福岡、九州から見た見方と、東京に出てきて東から見た見方では違うんだな、と感じました。

土方さん 多摩には海がありません。江戸しかないんです。その江戸を守ろう、と考えるのと、周りが海で、海の向こうからの圧力に対する危機感、周りからの刺激を感じるのとでは違うように思います。

14)「こういう日本人がいたんだよ」

武田 しかし、徹頭徹尾将軍家を守ろうとした、その筋の通し方には驚きます。

土方さん そうですよね。あれだけ利を見える人なら、損得勘定で言えば不利だとわかっていますよね。「これはもう無理だ」と感じたでしょうが、無理か無理じゃないかといところに歳三さんは価値観があったわけじゃないと思います。

武田 なるほど。わかっていたが、それは問題じゃない。そこに価値観はない、ということですね?

土方さん 榎本武揚さんが後に書をくださるんです。歳三さんのことを部屋に入ってくると風が吹いてくるようなさわやかな人だった、と評した文です。

武田 素晴らしいですね。土方歳三さんがそういう生き方をされたから、「武士とはこういうものだ」と言えるんだと思います。

土方さん ありがとうございます。

武田  自分個人の感情ではなく、公のために生きようとした日本人がいるんだよ、と私たちは子どもに言えます。そういう存在である土方歳三さんがいるのは非常に誇らしいことだし、日本人としての財産ではないかと思います。私も今に残るその後ろ姿を見ながら鵬玉会の会員のお役に立ちたいと思います。

土方さん 武士道というのは口で説明しづらく難しい世界ですよね。子どもたちに伝えられるものとして残していきたいですよね。

武田 そうですね。次世代の子どもたちにつなげるかは非常に重要だと思います。

土方さん 私は土方歳三という人物が石田にいて、こういう人だったという人となりを子孫として伝えていこうと思います。ぜひ興味があれば、ここにいらしてその空気を感じていただきたいと思います。丁寧に取材していただいてありがとうございます。


鵬玉独白

「武士道」を語るとき、わかりやす事例を出せば「忠臣蔵」の赤穂浪士か、あるいは新選組の名を出すことができるだろうと思います。私たち現代人の目には、筋を曲げずに最後まで戦いとおした人たちというイメージでしょうか。
そしてそのイメージを代表するのが、新選組副長土方歳三です。

作家浅田次郎先生もこの土方歳三を大好きなようで、かの名著「一刀斎夢録」には、無外流の大先輩、斉藤一の口を借りてこう表現されています。
「(明治の顕官たちの口からは)土方歳三の名は出ぬ。仮に誰かが口を滑らそうものなら、たちまち失言を被うように話題が変えられた。
どういうわけか、わかるかの。
御一新の戦の敵味方にかかわらず、生き残った者にとって土方歳三の名は、禁句であったのだ。
武士の時代を双肩に背負ったあの死に様はの、かつて武士であった者たちの目にはあまりに眩しく、あまりに輝かしく、その名を口にするだけでおのれの栄光がすべてめしいてしまうように思えるのであろう。」

土方愛さんも、おそらくこの土方歳三副長のご子孫である、という事実を背負い、たくさん勉強され、自分を律してこられたのでしょう。事実、かつて榎本武揚が土方歳三を「風が吹くようだ」と言ったように、爽やかな方でした。剣は受け継いでいらっしゃらなくても、きっと魂は受け継いでいらっしゃるのでしょう。武道も武士道も、個人の成長とともにあるように思います。このような生き方をした日本人土方歳三がいたことを誇りに思い、一歩ずつ成長したいと思います。

そして私は、土方歳三が組織全体をよく観察したように、鵬玉会会員の一人ずつを見、大事に成長するお手伝いをしたいと思います。