夢録14 追悼 無外流第15代宗家 塩川寶祥照成先生 新名玉宗宗家に、その師塩川先生についてお聞きします。

夢録14 

追悼 無外流第15代宗家 塩川寶祥照成先生
新名玉宗宗家に、その師塩川先生についてお聞きします。

本年(注 2014年)3月18日、塩川寶祥照成先生が他界されました。享年88歳。
塩川先生は、中川士龍先生以降の無外流においては、誰も異論を挟めないほどの巨人でいらっしゃいました。
そして私たち一門の長、新名玉宗宗家の師でいらっしゃいます。
言わば私たちのご先祖のお一人。

この塩川先生ご他界前の交流をお聞きすることで、
新名宗家を通じて今は亡き塩川先生に迫りたいと思います。
そして今回の夢録は、故塩川寶祥照成先生に捧げます。

(インタビュー 武田鵬玉)

塩川寶祥照成先生(1925年~2014年)
無外流居合兵道範士九段第15代宗家、塩川派糸東流空手道範士九段宗家、神道夢想流杖道範士九段。大正14年山口県下関市生まれ。28年下関市で空手同士会を結成。32年から3年連続無外流居合兵道振興会全国大会優勝。36年高野山にて無外流免許を伝授される。同年全日本剣道連盟全国大会パート優勝。その後も全日本剣道連盟、全日本杖道連盟等各種全国大会において空手道・居合道・杖道、釵術等の演武を行い、普及に努める。
2014年3月18日永眠、享年88歳。
新名玉宗先生
1948(昭和23)年10月2日大分県津久見市生まれ、
財団法人無外流、傘下17団体一門の長.。
関東最大、無外流明思派宗家。
無外流居合兵道の修道者としては86年師範、96年免許皆伝。
98年範士、99年宗家継承(無外流明思派宗家の名乗りは2004年から)。
鵬玉会では最高顧問をお願いしています。

1)「師の師として」塩川先生に迫る

武田鵬玉(以下、武田) 本日はご宗家(新名玉宗宗家)をお迎えし、今年(注2014年)3月18日にご逝去された、無外流居合兵道範士九段第十五代宗家 塩川寶祥照成先生についてお聞きしたいと思います。

無外流明思派 新名玉宗宗家(以下新名宗家) ふむ。

武田 私にとっては師の師ですから、塩川先生からは孫弟子です。ご生前にお会いできなかったのが本当に残念です。ここはご宗家からお話をお聞きすることで、その遺徳にも触れ、偲ぶことをお許しいただきたいと思います。

新名宗家 きっと塩川先生も「おう、やれや」とおっしゃると思うよ。豪放磊落(ごうほうらいらく)なお方だったから。

武田 であれば、今回のタイトルもご宗家の口をお借りして塩川先生に迫る、ということで「塩川寶祥照成先生」にさせていただくことを一度だけお許しください。

新名宗家 武田さんが「師の師として」と言うなら、いいんじゃないか?

2)「15代」宗家の由来

鵬玉の師の師、塩川寶祥先生。1925年-2014年


武田 一つお聞きしたいんですが、塩川先生の「第15代宗家」というのは、どなた方が中川士龍先生の間に入っているんでしょうか。

新名宗家 石井悟月先生なんだよ。

武田 石井先生は第十二代・・・でしたよね?


新名宗家 それが実は中川先生が本を出した後に「数え間違いをしていた。私の前に二人いた。」なんておっしゃったそうなんだ。

武田 すると本当は十四代が石井先生で、塩川先生が十五代という計算ですか?

新名宗家 そう。中川先生の前に二人も入れていいのか、誰を入れるのか、そもそも石井先生は破門になっておられるし、と私たちは心配したんだよ。けれど、塩川先生は意に介してはいらっしゃらなかった。

武田 豪快ですね。

新名宗家 生きる武道界の伝説だったんだ。全剣連の全国大会でも準優勝され、普及に貢献された。恩義を受けた人間も多い。だから、生前は誰も文句は言えなかったんだな。実際うまく、そして強かった。誰も歯がたたなかったよ。

武田 「文句があるならやるか」という感じだったとか。

新名宗家 そうなんだよ。「無外真伝剣法訣」を引き合いに出して、「形に縛られた形であってはつまらん、敵のすべてに応ずることができなくては真の無外流とは言えないんだぞ」とおっしゃったくらいだから、細かいことではなく、どれだけ実戦に迫れるかが先生にとっての問題だったんだろうな。

3)全剣連の居合道部で指導

武田 全日本剣道連盟の居合道部でも活躍されたそうで、私ら世代が知らないだけのようですね。

新名宗家 昭和三十一年に、剣道連盟居合道部が発足している。そして、昭和四十四年に全剣連の制定居合が定められたんだな。剣道連盟は「五段以上は居合も」という方針を決めた。しかし、困ったのは剣道連盟なんだよ。

武田 なぜですか?

新名宗家 だって、指導者が居ないだろ?そこで有名な紙本栄一師範、直弟子の富ヶ原富義師範、そして、塩川先生に白羽の矢が立ったんだ。大変だったそうだよ。

武田 どんなふうに大変だったんですか?

新名宗家 だって日本全国が相手だ。今の全剣連、八段範士の中には塩川先生に学んだ方達も大勢いるんだよ。

4)麻生太郎副総理の事務所で

居合道会 国際大会で鵬玉がいただいた麻生太郎副総理の祝電。


武田 その影響力たるや、今も残っているんだな、と思ったのは、居合道会の用事で麻生太郎副総理の事務所に行ったときのことです。「君は若い頃の塩川先生に雰囲気が似ている」と言われました。それでよくしてくれている、と感じます。

新名宗家 思い出すと偉大な先生だった。ものごとにはこだわらなかったし、腹になかったね。

武田 そうやって考えると、塩川先生ご自身が「第15代」ということにこだわっていらしたかどうかも謎だと感じます。

新名宗家 どうかね。「腹になかった」というのは、塩川先生の腹の中には黒いものがなかった、ということだよ。昔から「腹にイチモツ、背に荷物」と言うんだよ。それだけ、腹の中に黒いものをもった人が多いということなんだろうな。

武田 「腹にイチモツ、背に荷物」ですか?面白い言い回しですね。ご宗家自身が一旦第十六代を譲られながらも、塩川先生と離れられて、今や関東最大の一門を率いていらっしゃることを考えれば、この師にしてこの弟子あり、と私は感じます。

5)武道には「守・破・離」の三つの段階がある

後年、東京に指導に来られていたころの塩川先生。


新名宗家 そう思ってくれるのは嬉しいけどね。武道の世界では守・破・離の三つの段階があると言われます。私の弟子でもほとんどは「守」の段階から進めず、逃げ出す者も多いんだよ。

武田 どの武道、流派にもある話だと思っています。

新名宗家 私が塩川先生から離れて十年。しかし、離れても先生は先生だ。修業時代のことは今思い出してもなぜか楽しい思い出ばかりだ。だから先生の奥様にはよく近況をそれとはなく電話でお聞きしていた。

武田 下関に稽古に行かれていたんですよね。

6)下関の塩川先生の道場での修業時代

新名宗家 ときどき会社を一週間や十日休んだりしてね。偉大な先生だった。私は身近にいて学ぶことができたことを幸せに思うよ。先生の道場で深夜まで稽古していたことを最近よく思い出すんだ。塩川先生は「おい、ここは俺の道場だから自由に使え」と言ってくれる。

武田 幸せな環境ですね。温かいお言葉です。

新名宗家 夜10時くらいまで指導を受けたあと、そのまま道場で一人稽古をするだろ?先生は「俺はもう上に上がるからな」と階段をのぼっていく。しばらく稽古をしていると、ビール瓶を片手に降りてきてこう言うんです。「新名、足が違うぞ」と。見ていないのに、なぜわかるのか?音を上で聞いていて、「違う」と気づいたんだな。当時はびっくりしたなあ。

武田 塩川先生はご宗家の今も、きっと奥様を通じてご存知だったんでしょうね。

▲下関の塩川先生の道場で修業時代の新名宗家。

7)亡くなられる前に塩川先生が受け取った手紙

新名宗家 さっき話した、武道の世界の「守・破・離」の三つの段階のことなんだが、実は、先生が亡くなられる直前、私が先生から受け継いだものを守り、そして「破」の段階を経て、「離」の段階に入ったと思ったんだ。そこで、このことを昨年12月に先生にお手紙した。どう思われるかはわからなかったけど、純粋に弟子として師に伝えたかったんだよ。

武田 弟子から手紙をもらって喜ばない師はいないような気がします。

8)塩川先生は新名宗家の手紙を枕の下に入れていた

新名宗家 先生が亡くなってから奥様に聞いたんだが、その手紙を亡くなるまで枕の下に入れ、読み返してくださっていたそうです。「アイツはやる」とおっしゃっていた、ということを聞いて胸が熱くなったよ。

武田 ご逝去前にお手紙が間に合ってよかったですね。

新名宗家 私は先生からたくさんのものを受け継ぎ、今では一門を率いています。先生がその成長を喜んでくださったことは、同じように弟子を預かる立場としてよくわかります。

9)奥様が温かく待ってくださっていた

武田 お参りに行かれたんですよね?

新名宗家 線香をあげに行きました。ありがたいことに奥様が「アンタが来ると言っていたから」と、からだを気遣ってくれてね、高いサプリメントを、あれもこれもと幾つも準備してくれていたんだ。「よく来てくれました」と歓迎され、帰りは車で送ってくれました。もう本当にありがたかった。奥様の歓迎だったが、これは塩川先生の意向だ、と感じたよ。

武田 驚いたのはこの写真です。初盆の祭壇のお写真ですよね?盆提灯を贈られていたんですね?

新名宗家 ヨーロッパ連盟長が稽古に来ていたのでお参りには行けなかったから、奥様が写真を送ってくださったんだ。

塩川先生の初盆の祭壇。遺影の両横には「無外流居合道 明思派宗家 新名玉宗」の立札が立てられている。

10)遺影の両側に立つ新名宗家の盆提灯

武田 驚くのは、ご宗家の贈られた盆提灯が塩川先生の遺影の横に立っていることです。

新名宗家 そうなんだ。ホントに私も驚いたよ。

武田 塩川先生の「家紋と塩川家」戒名の「寶祥院釋照護」と記した提灯一対が無外流居合道 明思派宗家 新名玉宗という立札をつけられて並んでいます。

新名宗家 ワザワザ立札を立ててくださったんだな。亡くなる前に私の手紙をご覧になった塩川先生のお喜び、私へのお言葉をご存知の奥様が考慮してくださったのかもしれない。でも私には、塩川先生が今も「しっかりやれ!頑張れ、新名!」とおっしゃっている証のような気がしてならないよ。

武田 凄いことですね。この写真一枚が全てを物語っているような力強さです。本当に私は塩川先生にお会いできなかったことを悔やみます。

新名宗家 しかし、私は今はこう思うんだよ。これはね、「新名がどうこう」ということではないんだ。塩川先生の奥様や、今日まで地道な稽古を積み上げて来た、明思派一門の皆さん達のお陰であり、有り難いことなんだ、とね。

11)塩川先生から学んだのは技術だけではない

武田 その姿勢を私も学びたいと思います。

新名宗家 塩川先生から学んだものは技術だけじゃない。武道に向かう姿勢も、生き方もたくさんのものを学んだんだ、すべて私の財産になったんだ、と思う。先生の下を離れて十年経った。でも、感謝の気持ちを忘れずにやって来たことを、奥様はじっと見ておられたんだね。

武田 それは塩川先生も見ていらっしゃったということでしょうね。

新名宗家 ホントに有り難い事であったと感謝しているよ。所詮この世は人と人の繋がりです。損得で計算するのではなく、また陰日向なしに誠実にお付き合いさせて頂くことが極めて重要だったんだね。

武田 天に伝わるようなものでなければならないと最近感じます。

12)術の中に道を見い出す

新名宗家 先生の志を受け継ぎ、そして今度は一門の皆さんに無外流、玄黄二刀流、そしてたくさんのものを伝えていかなくちゃならない。稽古も、格好や見た目の美しさだけを追い掛けるのではなく、真の武術として「術の中に道を見出だす」という地道で、かつ探究心を持って日々稽古に励まなくちゃならないからね。

武田 心します。

新名宗家 無外流は、そして玄黄二刀流は単なる動きやただの形ではないよ。それをこれから門をたたく人たちにもわかるように伝えて欲しい。

系譜を継ぐ一門として、私たちもWEBのこの写真に頭を垂れたい。

鵬玉独白

塩川先生のお話は新名宗家からよくお聞きしました。聞くたびにその豪快なエピソード、弟子に対する愛情にうれしくなりました。失礼ですが、どこかやんちゃです。そのやんちゃな姿、そして実力に裏打ちされた強さは昭和最後の武道家という言葉がふさわしいのかもしれません。

私は新名宗家に「塩川先生に一度お会いしたい」と言いましたが、かなわぬ夢になってしまいました。
しかし、この塩川先生の系譜を継ぐ一門であることに誇りを持ち、皆でその道を一歩ずつでも進んでいきたいと思います。