夢録09 土方歳三資料館館長 新選組副長土方歳三ご子孫 土方愛さん(前編)

夢録09

土方歳三資料館館長 新選組副長土方歳三ご子孫 土方愛さん(前編)

鵬玉会結成初年度、2013年の夢録の掉尾を飾るのは・・・
新選組の土方歳三副長のご子孫として、土方歳三資料館館長を務められる土方愛さん。
そして奇しくも2013年は新選組結成150周年なのです。

かつて作家浅田次郎先生も審査員をし、NHK大河ドラマ「新選組!」のキャストもゲスト出演した、ひの新選組まつり。

その2009年の回のこと。
この夢録でインタビュアーをしている私、武田鵬玉は近藤勇役を拝命いたしました。
全国から集まったファン300人を率いて歩いたときには、近藤勇の興奮というものを感じたように思いました。

その審査席には、土方愛さんのお母様もいらっしゃいました。
以来何度もお会いするご縁があり、今回あらためてインタビューの機会を得ました。

幕末の京以降の活躍は多く語られますし、映像にもなりましたが、組織のNo,2として新選組を作り上げた、そのリーダーシップがどう形成されていったか、若き土方歳三について語られたことはほとんどありません。
このテーマは、私にとっては非常に興味深い内容ですが、なんらかの組織に携わるすべての人にとっても興味深い話ではないでしょうか。

結成初年度の会のためにも、150年前の新選組 土方歳三副長に学びたいと思います。今回も今月と来月の二回に分け、前編後編でお届けします。(インタビュー 武田鵬玉)

土方愛さん
10人兄弟の末っ子だった新選組副長 土方歳三は生涯独身。愛さんは歳三の次兄・喜六の子孫で、喜六のひ孫が愛さんの祖父。築300年の歳三の生家で育ち、「土方家」を継ぎ、東京・日野市の歳三生家跡の「土方歳三資料館」を運営なさっています。

▲武田の兼定は、経済誌 月刊「リベラルタイム」2011年 連載^ロマンティックな愚か者」(島地勝彦) 第31回「刀とサムライと恋女房」でも取材された

1) 古人の跡を求めず、古人の求めたるところを求めよ

土方歳三資料館 土方愛館長(以下土方さん) 夢録(むろく)を見ると、天然理心流宗家の宮川先生を始め、錚々たる方達が武道について語っていらっしゃいますね。私は武道については語れませんが、よろしいでしょうか。

武田鵬玉(以下武田) はい。夢録は当代一流の方々にいろんなことをお聞きするものです。入る斬り口はいくつもあっていいと思っています。

土方さん なるほど。

武田 松尾芭蕉が「許六離別詞」という、弟子に与えた言葉の中に「古人の跡を求めず、古人の求めたるところを求めよ」というものがあります。要するに、「先達のただ真似をするのではなく、先達が何を見たか、何を求めたか、それを追いかけなさい」ということだと思うんです。武道家には武道のこと、土方さんにはせっかくの機会なので土方歳三という方のことをお聞きしたいと思います。

土方さん そうですか、安心しました。私たち子孫の間に伝わっている(土方)歳三さんの話でいいですか?

2)新選組結成150周年、そして鵬玉会結成初年

武田 ええ。ちょうど2013年は新選組結成150年です。そんな年に私たち鵬玉会という会ができたのも何かのご縁だと思います。

土方さん そうでしたか。

武田 鵬玉会を無外流の宗家から預かりました。その上であらためて思うことは、組織をひっぱっていくということ、言わばリーダーシップというものは難しいなあ、ということです。そこで今日は新選組副長土方歳三という方のリーダーシップについてをテーマにしたいと思ってお伺いしました。
浅田次郎先生の「一刀斎夢録」では、組織を作り、実務を考える土方歳三、それを理解して実行する斉藤一、という描き方がしてありました。無外流の大先輩、斉藤一ともご縁が深い土方歳三という方に迫る内容を、2013年の無外流居合 鵬玉会WEBの締めくくりにご用意できるのは喜びです。

土方さん 了解しました。それならお話できますね。

3)組織におけるリーダーシップの形成をさぐる

武田 ありがとうございます。リーダーシップというものをテーマにすれば、組織を持つ方すべてが知りたい内容になるでしょう。

土方さん なるほど。

武田 作家浅田次郎先生はやはり土方歳三という方が大好きらしく、「クレバーな男だ。途中で舞台を降りることもできただろうに、最後まで突っ張り通したところは凄い」というようなことをおっしゃっていますね。

土方さん
 (笑)。

武田 あの筋を曲げない生き方に憧れる方も多いでしょう。私もそうで、実は土方歳三さんの愛刀、十一代兼定が安政に作った一振りを持っています。

土方さん
 では、それはまだ兼元名義のものですね?

武田 はい。それと応永の兼定の脇差も持っています。

土方さん ではそのご縁を大切にして、お答えしますね。

武田 よろしくお願いします。

土方さん はい。

▲武田の兼定は、経済誌 月刊「リベラルタイム」2011年 連載^ロマンティックな愚か者」(島地勝彦) 第31回「刀とサムライと恋女房」でも取材された

4)京都前夜、天然理心流一派での序列は高くなかった

武田 宮川先生や井上先生からもお話をお伺いし、当時の資料や手紙も見せていただきました。驚くことがあります。京都に上がる前は失礼ながら後の新選組副長土方歳三さんの名前は出てきません。出てきても序列が非常に低いのがわかります。それが京に上がるにつれてだんだん序列があがる。京につく頃にはすでに存在感があり、そしてやがて押しも押されもせぬ新選組No.2になる。これはリーダーシップの凄さがあったのではないかと思います。現代風に言えば相当仕事ができた、ということでしょうか。

土方さん 天然理心流では中極位目録までしかもらっていませんからね。免許までいっていません。普通は入門して中極位目録までは6年くらいかかったそうです。歳三さんの入門は安政六年、25歳のときと言われています。

武田 今なら「若くして始めた」と言えそうですが、当時で考えれば遅いほうですよね。土方さん そこから29歳で上洛する前年の秋に中極位目録をもらっているんです。今から150年前の翌年に上京ですから、それ以上のところをもらうのには間に合わなかったのだろうと思います。

武田 京では仕事が待ってましたからね。しかし。普通は6年かかるところを3年弱でもらっっていたという点を考えれば、剣の技量は無視できないようにも思われますね。

▲武田鵬玉所蔵の11代兼定。土方歳三の佩刀に憧れて入手。

5) 万延元年の武術英名録

土方さん 関東一円の剣客をリスト化した、万延元年の武術英名録にも歳三さんの名前は出てきていますね。

武田 それは私も調べて驚きました。浅田次郎先生ではありませんが、肩書き云々は置いておいても土方歳三さんの剣が認められていたのがわかりますね。

土方さん 諸説あるんですが、実はそれ以前の若い頃に武術を初めていた、それがなんらかの理由で途中でやめた、再度始めたのが25歳の頃であったのだろう、ということです。正式入門25歳、ということだけで見るとつじつまが合わないんです。その直後にある、六所宮の奉納演武でも出ていますから。

武田 現在の府中大國魂神社ですね。

土方さん ええ。ですから剣を志したのは17,8歳くらいだと考えています。

武田 私たちが知らない土方歳三さんの青春時代が見えそうですね。

6) たくさん兄弟がいる、大きい家の末っ子

土方さん 剣を始めるときに矢竹を生家に植えているんです。この資料館の左前にもその矢竹があります。矢竹のように武士となって天下に名をあげん、と志をたてたんですね。

武田 その矢竹を見ることができる、当時の志を今も垣間見ることができるのは貴重ですね。

土方さん ところが、地元ではそう評判が高かったとか、天才児であったとか、ということではなかったんです。たくさん兄弟がいる、大きい家の末っ子です。みんなに可愛がられていたので甘えたところもあったかもしれません。きかん気が強くて、いたずらもたくさんし、のびのび育った、と伝わっています。

武田 今の話を聞けば、誰もが身近に感じるかもしれませんね。

土方さん そうですね。司馬遼太郎先生の本にも書いてありましたが、地元で語り継がれている話があります。石田散薬をご存知ですか?

武田 土方歳三さんの生家が製造、販売されていた薬ですね。

7)石田散薬製造、若き土方歳三の差配

土方さん ええ。牛革草(ぎゅうかくそう)という草を土用の丑の日に刈取りして作ります。当時の石田村は14、5軒です。ですから男衆、女衆合わせて村中総出で20~30人ぐらいで刈取りをするんですが、歳三さんが指揮をとった日は、仕事が早く終わったそうです。仕事や人の差配に歳三さんは力を発揮したんでしょう。

武田 それだけの人数の仕事なら相当あるんでしょうね。

土方さん そうです。刈取る草ももの凄い量になります。刈り取るだけではなく、洗いも必要、干すのも必要。そんな仕事の分担もいるでしょう。今、年に一度復元として同じ作業をするんですが、刈取りの時期と言えば暑くて大変です。それを膨大な量の刈取り、洗い、精製と大変な作業があったのに、若い歳三さんの差配なら早かったんだそうです。

武田 「なんだか歳三さんの言うことを聞けば、早く終わるぞ」と思われていたでしょうね。

土方さん そうでしょうね。ある種、人を引き付けるところがあったんでしょうかね。ガキ大将からそのまま発展したような。

武田 どこかやんちゃな。でもそういうところは魅力的だったでしょうね。

土方さん 歳三さんの最後の地である箱館で一緒だった榎本武揚さん、大鳥圭介さんはれっきとした幕臣で、バックグラウンドが凄い。海外留学の経験もある。教養もある。そんな錚々たる方達の中、歳三さんはただ一人農家の出です。

8)命運を賭けた場面では、仕事ができるかどうか

武田 なるほど。しかし、こういう生き死にがかかる場面では、その魅力がさらに際立ってそんなことは関係ないと思わせますよね。武士の最後としてはこれ以上はない、と誰も異論をはさめないような最後を迎えるし。浅田先生は、「だから明治後に誰も土方のことを口にしない。言えば自分がみじめに感じる」というようなことを書かれていましたね。

土方さん 殺気だった荒くれ者達を束ねるカリスマ性もあったんじゃないでしょうか。

武田 150年前、一緒に京にあがられた方達は錚々たる面々です。天然理心流免許皆伝者を始めズラリといらっしゃる。神道無念流永倉新八みたいな方もいる。普通に考えれば、今でも武道の集団の中では、二段や三段であっても、それより段位が高い人たちからは下に見られてしまいます。

土方さん そうでしょうね。

武田 武道の世界では段位、級位というのは強い縛りですからね。当時は今よりもさらにそういう傾向はあったでしょう。しかし、そんなことをものともせず、京に上ったあたりでは山南敬介に次ぐNo.3になっってしまった。山南敬介が負傷したのちは、名実ともにNo.2になった。それができた原因を考えると、可能性があるのは二つ。よほど仕事ができたか、あるいはよほど近藤勇と仲良かったか。

土方さん (笑)でも仲いいだけではですねえ。可愛がられはするかもしれませんが・・・。

武田 普通に考えればその通りですよね。そう推理していけば、よほどリーダーシップがあって、仕事ができた、ということが言えそうです。