夢録06 天然理心流 宮川清藏勇武宗家(後編)

夢録06 

天然理心流 宮川清藏勇武宗家(後編)

第六回の夢録は、幕末の京で一世を風靡した天然理心流九代目宗家
(新選組の近藤勇局長は四代目宗家)
の宮川清藏勇武先生のインタビュー後編をお届けします。

宮川清藏勇武先生
天然理心流九代目宗家にして、新選組局長近藤勇の生家宮川家の方として見れば、まぎれもないご遺族。夢録四にご紹介した宮川豊治智正さんはお兄様にあたられます。
天然理心流勇武館館長でいらっしゃいます。
NHK大河ドラマ「新選組!」にも出演され、近藤勇、土方歳三、沖田総司らが修めた天然理心流について解説していらっしゃいました。

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11) 宮川先生、九代目宗家を継承

宮川清藏勇武先生(以下宮川先生) 平成三年四月に八代目加藤伊助先生が亡くなったあと、平成六年三鷹武道館の石川館長先生がこう言われました。
「三年経った。九代目を決めなければならない。加藤先生は次は宮川君にと言われていたが、どうだ?」
身に余る光栄でした。それだけじゃなく、天然理心流もあちこちでまとまりがなくなってきていました。何とかしなければ、という思いもありました。そこで九代目宗家を受けたんです。

武田鵬玉(以下武田) お恥ずかしい話ですが、無外流もあちこち乱立しました。そして、それぞれがそれぞれの理屈をお持ちです。
また、私が今も心の拠り所にしている大山倍達総裁の極真空手も分裂を繰り返しました。現代の武道においてはそういう分裂は仕方ないのかなあと思いますが、天然理心流はいかがでしたか。

宮川先生 確かに、そう簡単ではないのはどんな流派も同じで、自分は自分で、という方もいらっしゃいます。軽い気持ちで天然理心流をやっている方もいらっしゃいます。そこで私は「それはそれで結構です。頑張って、天然理心流を絶やさないようにしてください」という立場でいきました。

武田 しかし、宮川先生は、新選組局長近藤勇の生家である宮川家の血を受け継いでいらっしゃいます。流派を継ぐことについては、第三者的に見ても重みがあることのように思います。

宮川先生 確かにそうでした。近藤勇の生家である宮川家の血を受け継いでいる私が天然理心流を背負うことは、ほかの方々と違って並々ならぬものがありました。新選組で必死に頑張った大おじ勇達が残したものをきちんと後世に伝えていかなければなりません。

武田 なるほど。

宮川先生 そこで新選組六番隊組長井上源三郎のご子孫である井上さんと一緒に天然理心流を守るためにこの勇武館を三年前に作りました。

12) 武道をやってみたからこそわかる、古人の気持ち

武田 よくわかりました。ではその近藤勇と天然理心流についてお聞きしたいと思います。無外流の居合と私は出会い、学んでいく過程で、「ああ、そうなのか!」と感じることがあります。それは、技や所作の裏に隠れた、当時の武士の気持ちや心構えなんです。やってみて初めて身近にわかるような気がする、というようなことです。

宮川先生 そうですね、やってみてわかることがありますね。

武田 天然理心流はさらに特別かと思います。近藤勇のことをさらに身近に感じたり、その心を感じとれるようなことがあるのではないかと思いますが、いかがでしょうか。

宮川先生 それは武道を追及する人らしい質問ですね。確かにあります。

武田 そこは武道を学ぶ私たちだけが感じることができる、核心の部分です。実はそこをお伺いしたいと思い、今日は来ました。ぜひお聞かせください。

車(しゃ)の構え

13) 相討ち覚悟、命を賭ける近藤勇の車(しゃ)の構え

宮川先生 構えに最もそれを強く感じます。

武田 どんな構えでしょうか。

宮川先生 車(しゃ)の構えと言いますが、今で言えば脇構えです。命がけ、相討ち覚悟の構えです。

武田 切っ先で相手を制して近寄らせないのが普通ですよね。

宮川先生 そうなんです。ところが、この車の構えは左肩を出して相討ちを覚悟していることを伝える。相討ちの覚悟を構えで伝え、先(せん)の取り合いにおいては相討ちになるかもしれないが確実に相手の命をとるぞ、という気で相手を圧倒するわけです。鹿島新当流の教えに「身は深く与え、太刀は浅く残して、心はいつも懸りにて在り」という教えがあります。まさにそれに通じる構えです。

武田 確か天然理心流の流租近藤内蔵之助さんは、その鹿島新当流を学ばれたんですよね。

宮川先生 そうです。その近藤内蔵之助の天然理心流の表木刀五本の形には、この術の真髄が込められていて、太極心、神の技であると言っています。

武田 真剣を持って、そんな相打ち覚悟の構えで近藤勇が前に立っていたら怖かったでしょうね。

宮川先生 当時の京には猛者も多かったでしょう。新選組隊士でもときには相手から逃げたいという気持ちが起こったかもしれません。でも相討ち覚悟で気で相手を圧して、命がけで討って出たんでしょう。だからこそ、相手は気持ちで圧倒された。その差は大きかったんじゃないかと思います。

14) 厳しい瞬間に覚悟を決めることができるようになる。
現代に通じる武道の稽古

武田 池田屋でも京でも、近藤勇局長以下、実証していますからね。

宮川先生 やはり、生きるか死ぬかの瞬間には、逃げ腰にならずに覚悟を決めることができれば勝ちにつながるのではないでしょうか。

武田 相討ちの覚悟を一瞬で決めたんですね。

宮川先生 現代社会でも、命をとられることはないかもしれませんが、それに匹敵するような厳しい局面が、どんな人にもあるでしょう。そんな厳しい瞬間にも、武道で日々生きるか死ぬかを想定して稽古していれば、瞬間で腹を据えることができるように思います。

武田 武道においては「殺してやる」と向かってくる相手と擬似で命のとりあいをする訓練をしているわけですからね。

宮川先生 仕事の上でも道が開けるのは、そうやって腹を決めたときかもしれませんね。その腹を決めて、相討ち覚悟で必死になるのが「誠」だとも言えるかもしれませんね。

武田 捨て身の覚悟、気で相手を圧する、というのが天然理心流の根幹であるということがよくわかりました。

15)新選組六番隊組長 井上源三郎再考

宮川先生 実は調べていき、検証していくと、なかなか語られませんが、天然理心流で強かったのは井上源三郎じゃないかと思うんです。

武田 それは新しい意見ですね。

宮川先生 というのも、お兄さんの松五郎と一緒に勇や歳三や沖田の十年前には免許皆伝だったんですね。

武田 そうなんですか?

宮川先生 勇は入門三か月で目録をとったんですが、そのときすでに源さん、源三郎は免許皆伝です。位から言えば、格の違いがあります。

武田 京都に行くときにはどういうニュアンスだったんでしょう。

宮川先生 京都に行ったにしても、いつも勇の横にひっそり寄り添い、しっかりと守っているイメージです。勇も歳三も沖田も後備えの源さんがいるから、容保公なんかと意気軒高に語れたんだと思います。支えがなければできないことです。小説では庭掃除をしたり、縫物をしたりしていますが、おそらくそんなことはしていないでしょう。大先生ですから。試衛館に年に何回かは行ったでしょうが、庭掃除をするなどはなかったはずです。勇からすれば、本来「井上先生」と呼ぶべきところですし、立場からすればそれは(沖田)総司の仕事です。

武田 なるほど。

宮川先生 ここからは推測ですが、それでも京に行ったのはなぜか。先代の周斎先生から「勇のことを頼む」大事な養子です、頼まれたんでしょう。周斎という大先生からのお願いですから「了解しました」と言ったんでしょう。勇を指導した立場の人ですし。勇と源三郎、勇と松五郎の関係は深かったんだと思います。

16) たった一つだけを繰り返し念じてがんばるとするなら、
それは一つの「誠」

武田 宮川先生にとって、武道とはなんでしょう。

宮川先生 まさに道です。人間の歩むべき道です。天然理心流では七つの道が示されていますが、その七つのどれが欠けてもはずれていくように思います。智恵はあっても親孝行がない、とか、人を思いやる心がない、とかいうとやはり欠けるんじゃないでしょうか。そう考えると、この七つの道が本来の武士道のように思います。

武田 なるほど。それを自分のものにするには、常に考え学ぼうとしなければなりませんね。

宮川先生 そうですね。私などは、この歳になってもまだまだ「日暮れてなお道遠し」です。精進が足りません。

武田 伊藤一刀斎も晩年「上に上あり」と言いましたし、無外流の流租辻月旦も「さらに参ぜよ三十年」と言いました。宮川先生にそう言っていただくと、凡人である私も道に終わりはないのだ、焦らず頑張ろう、と思えます。
では、今から武道を学ぼう、鵬玉会のWEBを今見ている方へのメッセージをいただけますか?

宮川先生 七つの道を最初から求めるのは難しい。でもたった一つだけを繰り返し念じてがんばるとするなら、それは「誠」の一字です。

武田 「誠」の一字ですね?

宮川先生 はい。人を慈しみ思いやる心である「仁の心」、人を尊敬する「敬の心」。その仁の心、敬の心に裏打ちされた誠意、誠実さを、武道を学ぶ上で追及してほしいと思います。それを教えてくださる先生、教えられる先生につくことが重要ですね。三年かけても師を探せ、と言う所以はそこです。

17) 新選組には、草莽の志の美しさ、素晴らしさがある


▲新撰組局長・近藤勇の肖像 (‘国立国会図書館蔵 )

武田 ありがとうございました。最後に、ひの新選組まつりでの演武で初めて宮川先生とお会いしました。そのときの無外流の印象をお聞かせ願えますか?

宮川先生 なんと剣の早い流派かと、驚きました。居合という特異性でしょうか。それにしても、あのとき、武田さんはナレーション担当で演武されませんでしたね。

武田 私たちの居合を演武だけでやっても、初めて見る方にはわからないでしょう。今何をやっているのかがわかるやすく伝わるように、すべての技に物語をつけたんです。ただナレーションができる人がいなかったので、私が担当しました。

宮川先生 なるほど。

武田 今日は宮川先生のお話を聞いてなるほどとも思いましたし、ますます勉強と稽古をしなければならないな、と思いました。

宮川先生 余談ですが、私は家庭菜園をやっています。徳川宗家が天保山、そして江戸に帰ってきたときに、実は勇ももう終わった、と思った気がするんです。元々将軍の警護として京に行ったが当の将軍が帰ったんですから。
何もかも終わって、畑でも耕そうか、と思いたかった気持ちもあった一方で、方や「尊皇攘夷」もおかしいではないか、という思いで踏みとどまったんでしょう。あのとき勇は「くにへ帰りたい」と思った気がするんです。もしどこかで帰っていたら、私が家庭菜園をしているように宮川の畑を耕しながらのんびりしてたんじゃないか」なんて夢想しますね。

武田 そういう夢想はおもしろいですね。

宮川先生 勇は三国志や日本外史が大好きでした。市ヶ谷の試衛館時代に小島鹿之助や佐藤彦五郎と漢学の勉強をしながら感化されました。

武田 では多摩に帰っていたら、勉強も続けたかもしれませんね。

宮川先生 またね、木刀を振ったり、漢学を勉強したり、畑を耕したり。

武田 まさに晴耕雨読ですね。

宮川先生 しかし、京の騒乱を目の当たりにしては踏みとどまざるを得なかった。そして務めを果たしました。

武田 人生を駆け抜けましたね。

宮川先生 桂小五郎、高杉晋作、坂本龍馬、西郷隆盛、みんな駆け抜けたんでしょう。日本のことを必死に考えながらね。その後、「ああ、そんなこともあったなあ」なんて言いながら、官僚として贅を極めた生き残りを見て、徳川慶喜公はどう思ったんでしょう。大正二年までご存命だったんですからね。近藤勇を思ったときに滂沱と落涙したと言いますからね。

武田 あの五年、六年の人生があるからこそ、小説や映画にもなり、そして日本人の草莽の志の美しさ、素晴らしさを伝えるものになるんじゃないでしょうか。今日はありがとうございました。武道の深いところに迫れた気がします。北方謙三先生にも今日お会いすることをお伝えしていますから、ご報告しておきたいと思います。今後と天然理心流におかれましては、無外流、そして鵬玉会とも仲良くおつきあいいただければ、と思います。

宮川先生 どうぞよろしくお願いいたします。

鵬玉独白
古人の跡を求めず、古人の求めたるところを求めよ

前編に続いて、宮川清藏勇武先生の後編をお届けしました。
天然理心流の九代目宗家、新選組近藤勇局長の生家宮川家の方なので、ご遺族でもいらっしゃいます。
天然理心流の考え方、技術、稽古体系をフィルターにして、新選組や近藤勇の見たものに迫ったように思います。
まさに、松尾芭蕉が
「古人の跡を求めず、古人の求めたるところを求めよ」と「許六離別詞」に言うところと同じです。
私たちが武道を追求する意味は非常に深いと思います。この志を受け継ぐことができるからです。志を受け継ぐとは、居合という武道の向こうのサムライの目、追いかけた武士道を自分のものにすることなのかもしれません。

まだ出会っていないあなたとも、一緒に居合の向こうを見る機会を持てることを祈って。