夢録11
特別対談 天然理心流 ×無外流 宗家対談 宮川清蔵勇武宗 × 新名玉宗宗家(前編) 新選組以来150年目の邂逅 「武道について語り合いましょう」
第11回の夢録は、天然理心流と無外流の両流派宗家の特別対談をお送りします。
かたや、幕末の京で一世を風靡した天然理心流九代目(新選組の近藤勇局長は四代目宗家)の宮川清藏勇武宗家。
かたや 新選組三番隊組長斉藤一が使ったと言われる無外流 関東最大の一門明思派を率いる新名玉宗宗家。
新選組が京にのぼった文久三年創業の日本橋の料亭から、150年目の邂逅をお届けします!
内容が濃いため、前・中・後編の三回に分け、お届けします。(インタビュー 武田鵬玉)
1)天然理心流×無外流 新選組以来140年
武田鵬玉(以下武田) 今日は新春特別企画でお送りしたいと思います。日本橋で文久三年から続く名店「とよだ」で天然理心流宮川清蔵勇武宗家、無外流明思派新名玉宗宗家をお迎えしています。宮川先生は、夢録でご存じの通り、新選組局長だった近藤勇さんのご子孫にあたられます。
天然理心流 宮川清蔵勇武宗家(以下宮川宗家) はじめまして。よろしくお願いします。
無外流明思派 新名玉宗宗家(以下新名宗家) こちらこそ、よろしくお願いします。
武田 流派を超えて、「武道についての核」のようなものに迫れたら、と思います。今日は、武道に興味があるけれど、というような方の代わりにお聞きしますので、「そんなの基本の話だろ?」と思われる内容もお聞きするかもしれませんが、よろしくお願いします。
宮川宗家 武田先生にお会いしてお話したのは昨年2月。あれからもう一年近くたつんですね。今日は楽しみにしてやってまいりました。ご縁だなあ、と思いましたが、このお店は文久三年にできたんですね。
武田 文久三年と言えば新選組がまだ新選組でもなかったその出発点、京都に上るその年ですよね。
宮川宗家 ご縁ですよねえ。今日は盛り上がりそうですね。
武田 新選組が上京した文久三年にできたお店で、新選組以来の天然理心流と無外流の邂逅、という趣で今日は話を進めたいと思います。
宮川宗家 (笑)。嬉しいですねえ。
2)幕末に至っては寂しい限りになった
新名宗家 無外流宗家と言っても、たくさん別れていますので、その一派の宗家ということで。お恥ずかしい限りです。天然理心流は空手形にはなりましたが、幕末には近藤勇が十万石、土方歳三が五万石を約束されて大名格です。それに比べれば無外流は石取りではなく、何人扶持ということになってしまいました。
宮川宗家 ほう。
新名宗家 最初は二百石だったんですが、幕末にはそんな状態になってしまっていたんです。
宮川宗家 流祖の辻月旦さんの頃には違いますよね。
新名宗家 ええ。大名三十六家が学んだと言われています。流祖の当時は勢力を張ったんでしょうが、幕末にいたってはどこにあるかわからないような流派になってしまいました。結局、土佐無外流は昭和の川崎善三郎先生で無くなってしまいました。剣道ばかりやられて、無外流の形を一切教えなかったそうです。だから、その弟子の皆さんは形を知らないそうです。
宮川宗家 どの流派もそうでしょうが、天然理心流も明治期は世に出ることをはばかり、ひっそり過ごしていました。大変苦労した時代でした。
3)幕末以降の天然理心流、無外流
新名宗家 姫路に伝わった高橋家だけがなんとかかんとか続いて、中川先生は十一代と言いますが、本当に高橋赳太郎先生から免許皆伝の巻物を受領し、宗家を継承をしたかどうかは不明です。巻物類等は。空襲で全部焼けたということですから。
宮川宗家 宮川家も調布飛行場の北側にありまして、昭和18年に軍から「飛行の邪魔になるから」と一方的に転居を命じられて、取り壊されました。そのときのごたごたで近藤勇の手紙や遺品の多くが散逸してしまったのです。
新名宗家 残っていたんですね、貴重なものが。失われたのは残念ですねえ。
宮川宗家 誠に残念です。
新名宗家 申しましたように、無外流もそのあたりは不明なことが多いわけですが、ただ中川先生が昭和のはじめに出した本の監修に高橋赳太郎先生の名があります。ですから高橋門下の重鎮であったというのは事実だと思います。しかし、その後がお恥ずかしい話になってしまいました。
宮川宗家 いろいろありますよね。天然理心流も(近藤)勇の当時に大名格を約束されたとしても、幕末の時代の流れは動きが速うございました。勇をはじめ、多摩の人たちもついていけなかったんじゃないかなあ、と思います。
新名宗家 私の子どもの頃は新選組は悪役で鞍馬天狗にやられていましたものねえ。あの頃の子どもたちはおそらく同じ印象だったんじゃないでしょうか。司馬遼太郎先生の「燃えよ剣」で私はその印象がガラリと変わったんじゃないかと思います。
4) 「天然理心流極意」佐藤彦五郎
宮川宗家 昭和50年頃、先代の加藤伊助先生から天然理心流の手ほどきを受けていました。曾祖父の近藤勇五郎-
武田 近藤勇さんからは甥御さんにあたられる五代目のご宗家ですね?
宮川宗家 はい。先代加藤先生が稽古を終えると、勇五郎から密かに呼ばれ、道場にある火鉢の灰にトンボ絵図を書いて形を教わったとおっしゃっていました。
新名宗家 いい話ですね。
宮川宗家 ただどんな流派もそう、武道に限らずどんなものも伝えられるうちに、やはりちょっとずつ変わる可能性があることは否めないように思います。近藤勇と義兄弟で、日野宿の名主をしていた、佐藤彦五郎という人がいるんですね。
武田 確か、近藤勇さんの養父だった近藤周斎さんから天然理心流を学ばれた方ですよね?
宮川宗家 ええ。その佐藤彦五郎が覚書で書いた「天然理心流極意」というものがあります。それを読むと、勇五郎さんが先代に手ほどきしたものとちょっと違うところがあるんです。
新名宗家 そうですか。
宮川宗家 文久三年、近藤勇が京に行ってからは、養父周斎は四ッ谷舟板(ふないた)横町に移り住んでいましたし、伝えていくのには難しい時代になったでしょうねえ。(近藤)勇のお墓がある、龍源寺の住職、林正禅和尚が「近藤勇略伝」というものを残しています。それによると、近藤勇達が京に上った後、市ヶ谷柳町の試衛館道場を守っていた門人で、幕臣の福田平馬(へいま)、田安家の家来の寺尾安次郎などに近藤勇五郎が学んだ様子が描かれています。勇の甥っ子だけあってめきめき腕をあげたということです。
新名宗家 龍源寺ですね?
宮川宗家 はい。林正禅和尚は勇のことを勇五郎から聞いていますが、そのときにきっと勇五郎に天然理心流のことを聞いたでしょう。結局伝えられて書くわけですから、そこに齟齬が出たとしても不思議ではないですし、事実はわからないんですね。
新名宗家 なるほど。本当に伝えていくことは難しいですねえ。
宮川先生 今なら動画に撮ったり、書き物に残したりできるでしょうが、幕末、明治期ひっそりと過ごさなければならなかった時期がありますし、どんな流派も本当に大変な思いで伝えてきたんでしょう。
5)中川士龍先生以降
新名宗家 無外流では中興の祖とされる中川先生がなんとか無外流を残そうと頑張られた。中川先生は日本居合道連盟を作られましたが、そこへ石井悟月先生が全剣連から400人程のお弟子さんと一緒にやってこられました。石井先生は、無双直伝英信流の河野百練宗家の後を継ぐだろうと言われたような方で、確かに大物です。中川先生は、もともとのご自分の高弟達がいたにも関わらず、わずか数か月で宗家を石井先生に継承させるということをしてしまった。
宮川先生 ほう。
新名宗家 宗家を譲ったところが、石井先生はすぐ全剣連に戻ってしまったわけです。そこで中川先生は立腹なさって、昭和36年に破門の回状騒ぎになってしまった。結局次代を誰に継がせるかをはっきりしないまま、1981年昭和56年に亡くなってしまった。
宮川先生 大変ですね。
新名宗家 私たちの無外流は、元々石井悟月先生の弟子であった塩川寶祥先生、糸東流空手の人ですが、この先生から学んだものなんです。塩川先生は石井先生と一緒に全剣連に戻ったものの、中川先生ともつきあいがあったんです。中川先生の無外流の特長は泥臭いところです。そこで石井先生と、これまた全剣連の大物で山口にいらっしゃった、居合道範士九段、剣道範士八段の紙本栄一先生のアドバイスを受け、無外流を洗練させていくわけです。
宮川先生 全剣連を意識されたんですか?
新名先生 そうなんです。全剣連の大会で勝てるようにしたんです。だから確かに美しくなりました。私はその無外流を学びました。昭和61年から東京で私は教えましたが、その美しい形だけではなく、それが実際に斬れて使えなければ駄目だ、と思い、徹底してきました。
6)「斬れる居合」にこだわって
宮川宗家 形で斬ることにこだわられたんですね?
新名宗家 はい。まずは使えるのかどうかが問題だと思いました。新選組が池田屋で歴史的な戦闘をしますが、そういう修羅場であっても、私たちの居合は使えるのか。そんなことまで考える流派はなかなかないと思いますが、言ってみれば、それが今まで我々のテーマであったと思います。
宮川先生 本来伝えられたものは、実戦的なものであったでしょうしねえ。
新名先生 私たちがこだわったものは3つあります。まず組太刀です。相手があって打ち合うものですが、無外流は元々剣術であったので、組太刀が残っているんですね。次に一人でする居合の形。本来、居合の部分は「自鏡流居合」でしたが、無外流の人間しかしなかったと言われ、江戸の文献にもすでに「無外流居合」と書かれています。その居合の形。そして3つめとして「実際に斬ってみろ」という試し斬り。「組太刀」、「居合」、「試し斬り」というこの3つが全てできる、という武道を修めようというのが我々の無外流です。まあ、特殊ではあるでしょうね。
武田 ただ、別れられた会や先生方にもそれぞれ理由があるのだろうと思います。否定をしようとは思いません。これから始められる方には選択の自由があるのだと思っています。
7)まずは知ってもらって、門戸をたたいてもらうこと
宮川宗家 テレビ、映画では無外流を使う居合の使い手が多く出ますよね。
新名宗家 (笑)それはフィクションですからね。
宮川宗家 いえ、何が言いたいかというと、作り手側では、「居合」と言えば「無外流」をすぐに思い出すんだろう、ということなんです。
武田 そう認知されているということですね?
宮川宗家 そうです。それが重要なことなんですよね。
武田 新渡戸稲造は、欧米でモラルを形成したのがキリスト教だ、それに匹敵するものとして日本には「武士道」がある、と言いました。しかし、今やその「武士道」はまるで絶滅危惧種のようです。それを取り戻す入口として役にたつためには、まずは知ってもらって門戸をたたいてもらう必要があります。そう考えると、「居合」と言えば「無外流」を連想してもらえるとしたらいいことですよね。
8)「剣客商売」「隠し剣鬼の爪」
宮川宗家 そうですよね。池波正太郎先生のドラマ、「剣客商売」も無外流でしたね。
新名宗家 まあ、ドラマの世界ですけどね。あれは一応塩川先生と私のビデオをプロデューサーが持っていって見てはいるんです。
宮川宗家 なるほど。私はあのドラマが好きなので、今日は身近に感じて嬉しいです。
新名宗家 見るのは見たんでしょうが、殺陣ですからね。いかに「見せる」か、が問題なんでしょう。武道の動きとは違いますからね。
宮川宗家 「雨あがる」もそうでしたね。竹藪の中で稽古しているシーンが印象的でした。明治の警視庁に残された記録によれば、新選組の斉藤一も無外流だった、と言います。
新名宗家 本当かどうか、それは私もわかりません。姫路藩の武士で、姫路藩が無外流だったので斉藤一も無外流だったのかもしれませんが。昨年NHK「そのとき歴史が動いた」で人気だった松平定知さんが、藤沢周平先生の「隠し剣鬼の爪」について番組化したいということで来られました。
宮川宗家 ああ、「そのとき歴史が動いた」は大好きでした。そう言えば藤沢周平「隠し剣鬼の爪」は無外流でしたね。
新名宗家 もちろん、実際は無外流に「鬼の爪」というものも、「隠し剣」もありません(笑)。
武田 え?ないんですか!?(笑)
新名宗家 ないよ(笑)!
武田 冗談です(笑)。
宮川宗家 (笑)。
新名宗家 松平さんと私が対談しました。松平さんのナレーションの中で、役者が立ち合う場面がありましたが、彼らの動きを見ていると派手なんですよねえ。今残っている古い武道というものは、本来命のギリギリでやりとりをするものじゃないですか。
宮川宗家 そうですね。
9) 「刃境」を超えれば「生き死に」がかかる
新名宗家 ぎりぎりの間合いから一歩どころか、足の親指の爪の長さ分動いて中に入る、言わば「刃境」を超えさえすれば生き死にがかかるというものです。それなのに、大きな動きで足を踏み出す、無防備に手を動かす。これが無外流だと思われたら困るなあ、と思ったものです。
宮川宗家 ただ、それで興味を持って武道の門をたたかれるのなら、まずはよしと言うところかもしれませんね。
新名宗家 そうですね。彼らは見せることに意味を見出す。我らは武道で命のやりとりを伝えていく。この違いを忘れてはいけないように思います。踊りを踊っているわけではありません。
宮川宗家 うんうん。
新名宗家 塩川先生が、「新名、無駄な動きをするなよ、コンマ何秒の世界なんだ、コンマ何秒無駄な動きをするだけで死ぬんだぞ」とよくおっしゃいました。まさにその通りだと思います。「殺されてしまう、死んでから「もう一回!」はないんだ、その無駄な動きをどんどん省いていったのが無外流なんだぞ」と繰り返し言われたことが、今の私の財産になっているように思います。最短最速で相手に刀を叩き込む、そのためにいかに無駄を省くか、ということですね。
10) 「無駄を省く」ことが重要
宮川宗家 「無駄を省く」ということが非常に重要だと感じます。私は今でも、「足の運びはこれでいいのか、これは無駄ではないのか」と自問自答することが多いんです。
武田 元々私は極真空手におりましたので、その創始者故大山倍達総裁が晩年「今でも正拳の握り方は本当にこれでいいのか、と考える」とおっしゃっていた姿と、宮川先生、新名ご宗家の姿がダブります。本当の武道家というのは、こうやって腰低く、求め続ける姿勢を持ち続ける人でありたい、と私は思いました。
宮川宗家 私が先代から学んだ形と、佐藤彦五郎さんがモノ忘れしないようにメモした動きや形、両者は一致しているのか。実は彦五郎さんはメモしただけですから、彦五郎さんにとってわかりきっていることは書いていないわけです。私はよく想像するんです。その書いていないことが鍵なんじゃないか、と。
新名宗家 昔に録画する機械なんかがあったらよかったですねえ(笑)。
宮川宗家 実は一行目、二行目の行間に最も大切な形や技が隠されているのではないか、と感じますね。それを読み取れるまでは、ひたすら稽古を積み上げなくてはならないのでしょうね。
新名宗家 書いていないところが実は口伝かもしれませんし、書き残せなかったのかもしれませんね。
宮川宗家 武道の世界は口伝、書き残さないものですからね。しかし、流祖の近藤内蔵之助も学んだ鹿島新當流の中興の祖と言われました大月関平という方がいらっしゃいます。この大月関平という方が天保13(1842)年に、鹿島新當流の神髄を後世に正しく残すために「兵法自観照(ひょうほうじかんしょう)」を書き残しました。その時代は剣術の流派が秘密主義に徹していた時代ですよね。
新名宗家 そうですよね。それを考えると凄いですね。
宮川宗家 そうなんです。口伝による伝承が多かった時代に、文書で残したことは、彼の功績として、高く評価されておりますし、現在でも鹿島新當流の皆さんたちによって大事に、そして大切に守られています。
11) ある程度うまくなったら教えられる
新名宗家 昔はパッとやってみせて「わかったか!?」というのが多かったです。「いえ、先生、パッとやられてわかるわけないです」って言いたいけど言えません(笑)。
宮川宗家 (笑)。そうですよねえ。昔は稽古のときでしか先生の形や技を見ることができませんでしたね。必死に見て、聞いて、長い間何回も稽古して、やっとのことで修めたものでした。先代加藤先生は常日頃「一日の稽古では畳の目一つしか進まず、稽古を一日さぼると畳の目二つ戻ってしまうぞ。毎日稽古せえよ。」とよくおっしゃっていました。大変でした。
新名宗家 細かい話はあまりしない。だから私は自分が苦労した分、工夫しました。
宮川宗家 どんな工夫をなさいましたか?
新名宗家 はい。大事なことは「間」の取り方なんです。足の動かし方ひとつにも本当は理由があるから、「その間で動いてはだめなんだよ」というのをある程度うまくなってわかるようになったら、口伝で教えることができるようになる、と考えています。剣術は相手が目の前にいるので、動きは想像できる。しかし、居合は相手がいないので、その理合を理解し、考えない限りはうまくなりません。