制限字数は700字~1200字です。
未満・超えるものは選外としますが、ここに記載はいたします。
作品No.1
13 「軍(いくさ)にも まけ勝(かち)あるは 常(つね)の事 まけて負けざる ことを知るべし」
鵬玉会に入門し、初めて百足を目に通した時に1番印象に残った歌でした。
人は、勝ち負けに一喜一憂したり落胆したり自己嫌悪に陥ったり、順風満帆に行ってる人を見ると羨ましくも妬ましく感じる事もあると思います。
順風満帆で、勝ち続ける人生より時には負ける事も必要であると、負ける事は悪いことではなく、むしろ自分を高め成長させるチャンスなのではないかと思います。
負ける経験が悔しいと思う経験が今後の目標になったり、心を強くし諦めない不撓不屈の精神を育成するための肥やしになると思いました。
私も鵬玉会に入門し居合を稽古する中で心から悔しいと思う事が常にあり、そこでただ悔しいと思って終わるのではなく、悔しさをバネに毎日稽古を繰り返し、サボりたくなる弱い自分が顔を出すと、悔しかった出来事を思い出し、自分に負けていられないと奮起して1日1形は最低でも毎日やろうと習慣にしました
体調を崩してしばらく稽古ができない時期があり、自分に負けたと感じた時もありましたが、自分に負けた経験から稽古ができない時は、オンラインや教本を活用して正しい形を復習するようにしました。
うやむやにしていた部分や間違った癖がついているのに気づける機会となり
結果的には、自分を成長させる、自分の動き、自身と向き合う必要な出来事だったと思います。
誰かに負ける、何かに負ける、自分に負ける、生きていく事は戦いで何と戦うかはその時々で違う、時には完膚なきまでに敗北するかもしれない
負けた時にこそ見つけたもの、気づけた物、掴み取った物は、生涯で本当に必要で大切なものであると語りかけてくる一首だと感じます。
作品No.2
わけ登る 麓(ふもと)の道は 多けれど 同じ雲井(くもい)の 月をこそ 見れ
『それを追求していけば、この仕事の行き着く先も同じではないか?』
とある企業の就職面談を受けた時に人事の人に言われた言葉である。
その一言で、興味がなかった某企業を受けようと思い、無事に就職。
その企業での2年間半は、私の人生を変える出来事が色々と起こりました。(脳の手術、結婚、引っ越し、海外へetc…)
芸術大学を志していた私は、中途半端に仮面浪人をし続け、頑固に就職時にもそれを引っ張り
、就職も仮面浪人も中途半端に。就職は決まったけれども、辞退し、大学を出てすぐに「無職」になりました。
全部自分の責任だけど、情けなく感じる毎日。このまま引きづり続けるのはよくないと、最後のチャレンジで再受験をすることにした。ダメだったらキッパリ諦めるという覚悟をした。
そうして私の中で最後の大学受験をし、結果は不合格。でもやり切った。思い残した事はない。でもなんだか空っぽになった。
第二新卒として就職を開始。就職エージェントに『会社説明会の人数が足りないから興味がないかもしれないけど出席だけしてくれ』と頼まれた。
心臓のペースメーカー、心臓血管などの循環器系の医療機器の業者の会社だった。
説明会に行ったら、何人かいると聞いていた出席者は私だけ。人事の人と私が1対1。
会社の仕事のこと、直接的ではないが、人の生命にかかわる仕事であることの話、
初めて知ったカテーテルという医療機器の話にそんな技術があるのかと驚いていた。
今までの私のことを話す。私の芸術に対する思いを人事の人に伝えた時。
彼はこう言った。
『芸術を追求していくことも、この仕事も行き着く先は同じではないか?』
なんだかぱっと見えない壁がとっぱらわれた気がした。
それからどんどん色々と私の中の身体上、人生上の問題が解決していった。
話は変わるが、
バリ島はバリ・ヒンドゥー教(バリ島独自のヒンドゥー教)である。
日々の生活に宗教が存在する。でも、日本と共通するように感じることは多々ある。
なんだか懐かしい。きっと日本もちょっと前まではこんな風だったんだろう。いや、今でもあるな?お祈りの事、宗教行事etc…
マレーシア旅行でモスクに観光に行った。
イスラム教の教育施設にトイレを借りた際に、せっかくだからイスラム教の説明を聞いて行きませんか?と言われ現地ボランティアの人の話をうんうんと聞いていました。
神様に対する考え方の説明が、バリ人の友人が私にしてくれた話と全く同じ説明ので(全ての源は一つ。姿形、見る人の見方が違うだけで一緒なのだ)宗教も言葉も違ったが、その瞬間ものすごく驚き、この時も何か見えない壁がパーンと割れたような感覚だった。
違う人種、宗教、追求したい分野、物事。入り口はバラバラで全く違うようだけど、
たどっていけば全て1つの源に。
そんな漠然としているけど、確信に近いこの感覚に気付いたことで、
私の中でバラバラだった物事は繋がり、より強いものになっていくように感じている。
バリ島なのに?なんだかあなたのやっている事は突拍子もない。
なんで武道の居合道やっているの?
大変不思議がられます。
でも私のなかでは全部繋がっていて、うまく説明できないけど、それを言葉にし、体現きるよう、麓の道から繋がる源(月)に少しでも近づけるように繋げて行きたいです。
作品No.3(字数超過)
23 朝夕に心にかけて稽古せよ 日々に新たに徳を得るかな
この句を選んだ理由は、「稽古」「心」「徳」のキーワードから考察したいと思い選びました。
1)「稽古」
稽古と考えるとただ強くなりたい、試合に勝ちたいと、考えてしまうのは当たり前だと思いますが、勝ったら稽古はしないの?辞めちゃうの?となってしまいます。この句から考えることは、稽古に対し「教わる立場」はもちろんでありますが、私は「変わりたい自分」この考えが大切ではないかと考えています。変わりたい自分とはなにか?私は別の視点を持って稽古に臨んでいます。それは気づきを大事に稽古へ臨むことです。稽古では、支部長・場所長より形に対して修正し正しい形を体に染み込ませます。ただ修正では、意味がありません。修正のご指摘をいただいたときに、修正前と修正後での違いに気づけるかが重要になると考えます。
2)「心」
心について考えることは、とても重要であると思います。心にかけてとあるように、支部長との稽古において修正の際にご指摘をいただいて変化していく。「心にかけて稽古せよ」この言葉を考えると、私はこのように考察しています。「謙虚の気持ちで稽古せよ」なぜ謙虚と考察したか。それは、支部長稽古において支部長の貴重な時間をいただいて修正をしていただいているからである。時間は誰にでも平等に流れていますが、教わる姿勢を考えると、謙虚の心が大切になってくると感じています。先月、私事ですが内弟子審査を受けました。その際も、武田会長・内弟子の皆様の稽古前の貴重な時間をいただいて面接をしていただきました。この時も私はこの百足伝の言葉が出てきました。謙虚な心がないと、自分中心でしか考えることができずさらには、相手の貴重な時間を無駄にしてしまう事になり、それではよくないと思い、「心にかけて」とあるのは、相手への謙虚な心を指しているのではないかと考えます。
3)「徳」
徳の意味に「精神の修養によって、その身に得たすぐれた品性。「~を修める」
この意味から考えることは、日々の稽古において、新たな視点や発見そして、進化がある。そして、稽古においては、精神の修練も入ってくると思います。武道においては、精神面の修練もあります。ただ振れば、よくなるのであれば、修行は必要なくなってしまう。それではなく、稽古においては「精神の修行」も重要であり、この考えを日ごろの稽古において頭に入れておくとキーワード1「稽古」キーワード2「心」が自然とセットになり、やがて、徳を得るのだと私は考えます。
この3つのキーワードは、これからの稽古において重要になると思います。常に稽古において意識していきたいと考えています。そして、全40首ある百足伝を読み返していきたいと思います。