03 実戦 武者修行時代

塩川寶祥伝

実戦 武者修行時代

6 一人自警団 糸東流空手創始者の元へ 

 巨大な米軍兵士、ボクサー崩れとも争った。塩川は決して身体は大きくない。小さい自分が、強い相手を倒すにはどうしたらいいか。

 自分は強くなりたいと渇望したのはこの頃だ。
 当時、日本の空手の四大流派は松濤館流、剛柔流、糸東流、和道流であった。その中で糸東流の創始者であったかつての師、大阪の摩文仁門下に再びなりたい気持ちを押さえられず、若松を後にした。
 昭和21年、塩川は大阪の地に降り立った。摩文仁先生の家の近くは空襲で壊滅状態、そこで西成の国場幸盛先生の聖心館道場に入門した。
 摩文仁先生は、毎週一度は教えに通っておられたという。
 大阪に居を移した塩川は、西成地区を中心に暴れ回ることになる。相手は進駐軍。たった一人の自警団を気取っていたのだ。街で弱いもの虐めをする不良外国人を見つけると、即座に叩きのめした。

 この頃に武道家として生きようと覚悟したようである。

 昭和24四年から27年にかけ、働いて生活費を工面しながら、真面目に空手の稽古に励んでいる。
 大阪の西成で暴れ回っていたこの頃、同じく大阪のミナミで少林寺拳法開祖の宗道臣先生が名前を売り出されており、塩川との接触もあったようだ。
 世は混とんとしている。

 昭和26年頃から、関西各地の道場を他流試合して回った。その結果、関西各地の沖縄出身の先生達から、苦情があがった。
「あの暴れん坊をどうにかしてほしい」
 先生より他流試合を禁止された。

7 合気道開祖 植芝盛平の高弟に

 この頃、大阪府警の武術指導に来られていた、植芝盛平先生と知り合っている。
 「塩川君は、私の若いときに似ている」
 そう言って植芝先生は、若き塩川をかわいがってくれたそうだ。

 植芝盛平は合気道の開祖である。身長156cmの小兵ながら大相撲力士を投げ飛ばす等いくつもの武勇伝があった。

 「合気道の達人」もどきの人は山ほどいる。私は、合気道ではないが同じような武道で著名な先生から「私が手をつかめば動かないよ」と言われたことがある。
 「本当ですか!?」
 いい機会だから確かめたいと思った。
 「さあ、抜いてごらん」と言われて
「じゃいいですか?」と言いつつ、サッと抜いたら抜けてしまったのだ。
 「だめだよ、そんな速さで抜いたら」
と言われてしまった。
 私は自分の大人げなさを恥じ、「もう一度お願いします」とお願いをした。
 今度は抜くことはしなかった。

 しかし、本物はいる。植芝盛平は本物中の本物であったと言う。「鬼の木村」と呼ばれ、全日本を15年間無敗、「木村の前に木村なし 木村の後に木村なし」と言われた木村政彦先生も植芝先生のからだに触れることができなかったと言う。まさに“神技”。植芝先生は「不世出の達人」とうたわれた武道界の伝説だ。

 塩川が、この植芝盛平の高弟として個人的に合気道の指導をずいぶん受けたという話はほとんど知られていない。おそらく合気道については普及活動をしなかったからであろう。ただの高弟ではない。驚くことに、植芝先生から道場破りを依頼されていたのだ。

 「盛平さんの弟子が開いている道場に行くんだ。盛平さんの弟子が、方々で道場を開いちょる。その中には天狗になっているものもおり、勝手に段まで出す者もおったんだ。そこであまりに目に余る者を懲らしめようという訳だ。「合気の稽古をつけて貰いに行く」という名目でな。俺には合気の技は掛からんのだよ。」

 植芝先生の口の悪さは有名だ。それが塩川には違う。稽古が終わった後、なんと植芝先生と一緒に風呂に入りながら、湯船の中で指導を受けることもあったそうだ。
 このような稽古を受ける弟子と師匠の間で何を授けられたのだろう。それを推測する言葉がある。

 「合気の技はすべて返し技があるんだ」

 昭和36年頃、東京在住であった塩川は、合気会本部道場と養神館道場に合わせて1年ほど通い、合気は卒業したという。
 合気は卒業した。しかし、後の「塩川・新名伝」の無外流に合気道が生きているのは間違いない。

8 各種武道の伝説たちと

 1年という短さはなんだろう。
 共通して武道の伝説たちは言っている。
「塩川君は、それでいい!」

 空手の摩文仁憲和先生、合気道の植芝盛平師範、無双直伝英信流居合の河野百練師範、無外流居合の中川士竜師範、杖の乙藤市蔵師範、それぞれの武道の伝説のトップ達が口にしたそうだ。

『君の場合は、それでいい。それは、それで達している』
と各師範は言われ、免状を出されたのだと言う。

 武道家は命の取り合いを想定して稽古するが、実際に命のとりあいで結果を残した武道家は他にはいない。エースパイロットであった塩川のみである。
 「俺に技をかけれるのは、盛平さん、塩田さん(塩田剛三師範)と藤平さん(藤平光一師範)の三人しかいなかった」
 新名宗家はよく私に言う。
 「塩川先生は、とにかく「文句があるならかかってこい」だったよ」

 すでに伝説が生まれている。
 これが次代に残り、指針となるためには誰かがまとめなければならない。
 それがこの「塩川寶祥伝」の存在意義だ。

 とまれ、世は変わろうとしている。
 昭和25年6月、朝鮮戦争勃発。

 それにともない米兵の狼藉に対しても、MPが厳しく取り締まるようになった。当然、米兵のけしからぬ振る舞いも激減する。結果、塩川の「自警団的」闘争も終了していく。

 塩川の実戦、武者修行時代の終焉だ。