塩川寶祥伝
巨星堕つ
27 覚悟の決め方
元新選組二番隊隊長 永倉新八が、函館で暮らしていた明治時代のエピソードに、孫と映画を観に行って、暴漢にからまれた話がある。永倉新八はあまりに暴漢2名が絡むので、孫を「下がっていなさい」と後ろにひかせ、持っていたステッキを前に突き出す。
その様子がただごとでない。
暴漢はそれを感じて逃げたそうだ。
それに似たエピソードが塩川先生にもある。
「勝負に勝つには、命を捨てることだ。どちらが先に命を捨てることが出来るかで勝敗が決まる。武道で強いとか、弱いとか言ったところで、大した差はありゃあせん!」
実際に命のやり取りをした人の言葉は迫力がある。
塩川先生が、70歳を少し過ぎた頃。
先生は、バス停で並んで待ってた。並んでいるのは、婦人と老人ばかり。
とんでもない老人が居るとは知らない、柄の悪いチンピラが三人やって来た。
「おい、こら!どけ!どけ!」
と割り込んだという。
しかし、30秒もかからず、3人はコンクリートに倒れた。
喧嘩した後はとどまってはいけない。
その定石通り、喧嘩慣れした先生は、すぐにその場を立ち去っている。

28 武道のプロ
「俺と武田さんだけが武道のプロだ。
武田さんの本当の気持ちは俺にしかわからないよ」
よく新名宗家はおっしゃる。
これは、新名宗家と私だけが、居合で生活の糧を得ていることを指すのだと思っていた。
しかし、塩川先生の資料を調べていて気づいた。
同じことを塩川先生がおっしゃっているのである。
『わしは武道のプロじゃ』と先生はよくおっしゃったそうだ。
塩川先生の言う「プロ」は、先の「それで生活の糧を得ている」という意味だけではなかった。
『この道は、儂にとって、命を賭けて貫いていく天職なんだ!』
と言う覚悟の表明だというのだ。
「なにかあったらそこに命を懸けるほどの覚悟は、サラリーマンしながら楽しんでいる人にはないよ。そんなもの、求める方が無理ってもんだ」
新名宗家はおっしゃった。
塩川宗家、新名宗家の言うプロは「覚悟」の度合いを表すのだ。
裸一貫になり、刀だけを握ってそこに立ったものでなければわからない。
塩川宗家、新名宗家が同じく口にする「ガタガタ言うならかかってこい。まずは同じことができたら話を聞いてやろう」
覚悟無き者が何を言っても、天には届かない。
新名宗家の道場には、同じ内容として、文豪吉川英治の「宮本武蔵」の最後の一説が額となって飾られている。
「雑魚(ざこ)は歌い 雑魚は踊る。 けれど、誰が知ろう、 百尺下の水の心を。 水のふかさを.」
ビジネスの世界ではよく「リーダーはAloneである」という。リーダーの孤独だ。
些末なことを議論したがる一般と違い、リーダーの責任を負う覚悟は、見える世界が全く違う。
塩川宗家、新名宗家の孤独はどれだけのものだったろう、と考える。
そもそも、中川先生の時代、無外流は誰も知らない流派になってしまっていたのだ。
塩川宗家は「ここに無外流あり」と声をあげ、無外流を知らしめた。
新名宗家は多数の会を作ることで、国内最大級の集合体の組織を作ることで花開かせた。
そして鵬玉会は単一団体、全国組織として無外流最大になった。世界がリスペクトをはらってくれるようになった。
その鵬玉会は武道の世界に歴史の足跡を残すことができるだろうか。それは今これを読み終わるあなたにかかっているのかもしれない。

29 寶祥院釋照護
日本が誇る武道界の巨星墜つ。
塩川寶祥照成と言えども、死からは逃げられない。
ときに平成26年、2014年3月18日。享年88歳。
私はその少し前、新名先生に「塩川先生に会わせてほしい」と何度かお聞きした。
「もうわからなくなっているようだからなあ」
実は新名宗家は塩川先生に手紙を出し、奥様とは電話で塩川先生のお加減を聞いていたそうだ。
決裂していても師は師、弟子は弟子であったのだ。
「武道の世界の「守・破・離」の三つの段階のことなんだが、実は、先生が亡くなられる直前、私が先生から受け継いだものを守り、そして「破」の段階を経て、「離」の段階に入ったと思ったんだ。そこで、このことを昨年12月に先生にお手紙した。どう思われるかはわからなかったけど、純粋に弟子として師に伝えたかったんだよ。
先生が亡くなってから奥様に聞いたんだが、その手紙を亡くなるまで枕の下に入れ、読み返してくださっていたそうだ。
「アイツはやる」とおっしゃっていた、
ということを聞いて胸が熱くなったよ。」
塩川先生のご位牌「寶祥院釋照護」の脇には、ある弟子から送られた提灯一対が置かれた。それには「無外流居合道明思派宗家 新名玉宗」と立札を奥様が立てられた。


「亡くなる前に、私の手紙をご覧になった塩川先生が喜んでくれたそうだ。「新名はやると思っていたんだ」とおっしゃっていたそうだ。
俺には、塩川先生が今も「しっかりやれ!頑張れ、新名!」とおっしゃっているような気がしてならないよ。」
ご生前、塩川宗家の迫力に誰もが口をつぐんだ。唯一命のとりあいを知っている塩川宗家の前では、何を言おうが”ごたく”だったのには間違いない。
その薫陶を受け、世界を飛び回った新名宗家の前でも誰もが何も言えなかった。
私たちはこの塩川・新名伝無外流の正当な継承者として、2人が望んだ実戦に乗り出し、大会も成功している。
果たして、守り、発展させることができるだろうか。
その大きな責任を忘れてはならない。


